夕張炭鉱マンの妻、『三池』上映会で日本を掘る

放送日:2006/11/11

先週土曜(11月4日)、《「三池」と「夕張」から日本を掘る》と題したシンポジウムが、東京・中野で開催された。炭鉱関係者たちの胸に迫る証言を集めた記録映画『三池』の再アンコール上映を記念し、その初日のイベントとして開かれた。
パネラーとしてシンポジウムに登場したのは、この映画を企画した、三池炭鉱の地元、九州・大牟田市役所の“仕掛け人”吉田さん、北海道・夕張炭鉱で働いていた炭鉱マンの妻の伊藤恵美さん(眼のツケドコロ・市民記者番号No.38)、この映画を監督した東京人の熊谷博子さん(眼のツケドコロ・市民記者番号No.25)。私もコーディネーターとして参加した。 夕張と言えば、先週のこのコーナーで、夕張市内の中学生の女の子2人が作った新聞『I LOVE 夕張発信局』が、全国最優秀賞をもらったというホット・ニュースをご紹介したばかり。前回は、頑張って発信している“夕張の子供達”に眼をツケたが、今回は、このシンポジウムで吐露された“夕張の大人”の思いをご紹介する。

■南も、北も、『フラガール』も

伊藤さんは、かつて炭住(炭鉱住宅)と言われる長屋に暮らしながら、子ども達を育てていた。北海道の炭鉱生活者である伊藤さんは、九州の炭鉱を描いた映画『三池』をどう見たのか。

伊藤:
ホントに同じ歴史を持っている町なんだ。景色もそうですし、今夕張に残っている、炭鉱で暮らした人たちの声なども、まさに、三池の方たちの言ってるような言葉がまだまだ聞けるんです。だから今、ホントに炭鉱(やま)のことを語ってもらえる、最後の時代になってきているような気がします。ドキュメンタリーの中で話されていた方達の話も、1つ1つ、夕張と重なって聴いていました。多くの、炭鉱の災害やいろいろな苦しみを、分かち合って一緒に生きてきた、そういう強さ、温かさ、支え合いというものが、脈々と、三池にも夕張にも残っているのだなぁ、共通のものだなぁっていう風に、感じたんです。

暖かい九州の海沿いにある三池と、寒い北海道の山間部にある夕張は、全く対照的な自然環境だ。その両者に「共通のもの」を伊藤さんが感じるということは、恐らく、閉山した日本中の炭鉱町の人々も、同じような思いを抱きながら、今も暮らしているということだろう。
そこから思い浮かぶのが、娯楽映画として今ヒットしている『フラガール』だ。お笑いコンビ「南海キャンディーズ」のしずちゃんのフラダンスなど、外見的な話題が先行しているが、この映画は、三池と夕張の中間に位置する福島県・常磐炭鉱の閉山と、町の再生を描いた、実話に基づいたストーリーだ。炭鉱住宅に暮らす人達の様々な思いが描かれていて、私も涙が止まらなかった。そういえば映画には、準主役の女の子の父親が炭鉱マンの一斉解雇で失職し、一家で悲嘆に暮れながら夕張炭鉱(!)に引っ越していく、という重要なシーンもあった。

■炭鉱(やま)の暮らしで得た、“生きる根っこ”

その夕張炭鉱の暮らしとは、どんな日々だったのか。ただ過酷なだけでなく、実際にいつも事故と隣り合わせで、それだけに日々、実感として《命や絆の大切さ》を感じていた、と伊藤さんは今回のシンポジウムで語った。

伊藤:
うちの旦那は、救護隊だったんですよ。仲間をね――やっぱり「仲間」っていう言葉を使うんですけど――遺体を全部上げたら、最後の人がぎゅっと土を握り締めてて…。子供さん3人いたんですね。その姿を見た時に、「ああ、生きたかったんだろうな」ってポロッと、(旦那が)私に言ったんです。その時、私もちょうど子供が2人生まれていた時でした。普通の食卓テーブルを囲んだ時に、すごく、当たり前の生活のありがたさ、一緒に食事を囲めることのありがたさを(実感して)、涙がポロポロ、ポロポロ出てきたんですね。今でも思い出すとそうなんですけど。
それって普段の生活ではなかなか感じ取れないものだと思うんです。自分の生きる根っこになってるのは、そういう体験です。したくはなかった経験だし、旦那にしてもしたくはなかった経験だけれども、そこでそういう辛い体験をさせてもらったことによって、炭鉱(やま)の暮らしっていうのが、過去ではなくて、(私たちの)生きる力になってるんですよ。いろんな事があっても、「前を向いて生きたら頑張れるじゃない!」「命があるじゃない!」っていう、何か開き直りじゃないんですけど、そういう力を炭鉱からもらってるんですね。

伊藤さんと同じ夕張炭鉱マンの妻で、ピアニストでもある波多野信子さんが作った歌が、シンポジウム会場で流れたときには、涙ぐむお客さんもいた。

    炭鉱(やま)の子供は夢を見る 父さん帰って来る夢を
    炭にまみれた大きな腕で 優しく抱いてくれる夢
    寒い朝 山の中腹から真っ白く立ち上る水蒸気
    あれが炭鉱(やま)の排気口 父さんたちの息なんだよ

                <波多野信子作詞・作曲 「炭鉱の子どもの子守唄」より>

■何もかも“一新”でよいのか?

今回のシンポジウムは、単にかつての時代を懐かしむのが目的ではない。その当時の社会にあって、今の日本に失われたものや心などを1つ1つ再確認しながら、「こんなに何もかも転換しちゃっていいの? 何か、大切に守っていくべきものもあるんじゃないの?」と考え直す=“日本を掘る”ためのシンポジウムだった。
特に今、夕張は財政再建のために、今まで作った箱物を、どんどん閉鎖しつつある。《何をつぶし、何を残すか》という、極めて具体的なテーマを巡って、現実的な議論もあった。中でも、会場のお客さん達に驚きを与えたのは、夕張で今閉鎖の瀬戸際にある沢山の施設の中の1つ、「石炭博物館」のスライド上映だった。

伊藤:
(スライドを指して)ここが石炭博物館です。これは、本当に坑道をそのまま残して、地下に入って行って、キャップランプを付けて、真っ暗な中を歩くという、体験ワークショップみたいな感じで、来てもらった皆さんに体験してもらっています。
(別のスライドを指して)これは、坑道の中です。実際に掘られた時の、いろいろな機械とか様子、そのまま残してます。実際に男達が働いていた現場を見ることが出来るし、どういう風に石炭を掘って行ったのかとか、その体感が出来るんですね。地下の中の湿っぽい、かびたような臭いとか…。
やっぱりこれは今閉鎖という形でそこを1回閉じてしまうと、もうここは見られなくなって、坑道もつぶれて来ますからね。そういう様な状況なんです。

三池炭鉱を調べ尽した熊谷監督も、「本物の炭鉱の奥深くは、夕張(この博物館)で初めて実感できた」と言っていた。私も先週現地に行ったが、もう冬季休業期間に入っていて閉館中だった。ただし今回は、「春の再開があるかどうか分からない」という状況だ。

■大人たちも、“I LOVE 夕張”

赤字減らしのために無駄な施設を思い切って削減することは確かに大切だが、今まで培ってきた町の誇りまで切り捨ててしまうことになると、却って住民がますます出て行ってしまうという、逆効果にもなり兼ねない。夕張市がこのまま財政再建団体になると、《何をつぶし、何を残すか》の判断をするのは、法律上、道や国の意向になってしまい、地元の市が地元の事情で判断する権限が無くなる。そんな中で、地元の事に地元の思いが少しでも反映されるよう、せめてもっと住民が声を出して行こうよ、という動きが、「今、少しずつ芽生えてきている」と伊藤さんは言う。

伊藤:
「報道では、夕張の財政(赤字)が何百何十何億ってゆう事とか、箱物は全部閉鎖だとか、そういう事ばっかりしか言わないじゃない」って。
下村:
すいません。(会場苦笑)
伊藤:
でも、「私達は、ここで生きてくんだよ」って。「こういう風な状態になっても、ここで生きてくんだよ。その中で大事なものは何か、皆で見つめ直して、それを言っていこう。そんなパワーを持ちたいね」っていう風に(周りに)言われて。同級生の仲間も同期会があれば、「もっと声を出しなさいよ、あんた!」ってね。そうすることで、夕張の人達が、何を思っているのか、何に悩んでいるのか、もしかしたら良い知恵が、外から来るかもしれない。「私達も求めています」って言えば、何かが繋がるかも知れない。夕張だけに固まってると見えないんです、真っ暗けなんですよ、坑道と同じように。だから、やっぱり《光》が欲しいです。だから、機会があるごとに、「自分達が何が出来るのか」を考えて、そういう事をできる力を「貯めていきたい!」「やりたい!」そう思ってます、はい。

600億を越える市の財政赤字額を考えると、甘いことは誰にも言えない。ここまで赤字が膨らむまで放置していたのも極端だが、一気に何もかもカットというのも、確かに逆の極端だ。厳し過ぎて町から人が逃げていけば、市民税の収入が減って、ますます事態は悪化する。このどん底の中で、何が最善か、今は市民の知恵を絞り合うときだ。
そのプロセスがまた、新しい社会・経済の仕組みに変わりつつある今の日本全体の改革のありように、何か示唆を与えてくれるかもしれない。まさに“日本を掘る”坑口の1つは、夕張や三池にあり、ということか。

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