『教育再生会議』メンバー決定!山谷首相補佐官への期待と不安

放送日:2006/10/14

安倍新首相の号令で設置される『教育再生会議』のメンバーが、いよいよ今週発表された。私も中学生と小学生の子を持つ父親として、これは重大な関心事だ。一体、この国の教育をどういう方向に“再生”して行こうとしているのか? キーパーソンの教育担当首相補佐官・山谷えり子さんに、就任4日目に首相官邸にお邪魔してお話を伺った。

■ダメ教師には退場を

そもそも山谷さん自身は、今回の補佐官就任前から、一国会議員としてかなり精力的に教育問題を質問などで採り上げていた。

山谷:
歴史教科書だけではなくて、例えば音楽の教科書でも美しい唱歌とか童謡とか日本の情操心を豊かにするような、そういうものが減っているわけですよね。「われは海の子、(中略)煙たなびくとまやこそ」って。「とまや」なんて惨めな小屋だから差別用語だ、とかですね(笑)。赤とんぼ「15で姉やは嫁に行く」、民法違反じゃないかとか(笑)。「村の鍛冶屋」、今はそんなもんは無いから外せ、とかですね(笑)。そういう理由でどんどん外されていく。そうすると、私たち日本国民が持っていた情操、おじいちゃん・おばあちゃんと孫が一緒に歌う歌なんて、どんどん減っていくわけですよ。
私がずっと問題にしていた、家庭科の教科書も本当にひどくなって来ていましてね。「祖母は孫を家族と考えていても、孫は祖母を家族と考えない場合もあるだろう。」「犬や猫を家族と考える人もいる」、なんてですね。これは国会で取り上げて、「これじゃ家庭科か家庭崩壊科か、分からないじゃないですか」と。
それから、非常識な、年齢に相応しくない、過激な性教育。親がそれを校長に言っても、教育委員会に言っても、全く直らないわけですよ。自民党に3500件ですね、とんでもない(「過激な性教育」の)実例が(現場から)山のように集まって来ています。

情操教育や、世代を超えて歌(などの文化)を継いで行こう、という考え方には、私も基本的に共感する。
以上は、山谷えり子さん“個人”の思いだ。では、今週メンバーが決まった『教育再生会議』では、何をして行こうとしているのか? 今度は、“首相補佐官”としての見解を聞いた。

山谷:
まず学力の向上ですね。それから規範意識、どんな生き方が素敵なのか・美しいのかっていう事を子供達が分かってですね、それで自分の持ち味を発揮して、世の中の役に立てる喜びを知る。それから愛の深い人間・心の豊かな人間・いろいろな想像力・イマジネーション・共感性の高い人間、そうした人を育てて行きたいと思います。それが結局、せっかく生まれた人のですね、生きがい・喜びにつながっていくと思いますので。
下村:
今も“美しい”とおっしゃいましたけど、「美しい国へ」っていうのが最終的な…
山谷:
ええ。
下村:
“美しい”というのは、人によって非常にとらえ方が違うので、山谷さんのとらえられる「美しい国」とは?
山谷:
日本人というのは、正直・親切・勤勉・節度・品位・調和・献身・進取の気性など、非常に優れたものがあるわけですよね。「もっと日本の素晴らしさを分かりましょうよ」ということを具体的な教育プログラムの中に入れて行きたいと思います。
下村:
そういう作業を進める中で、「教育再生は戦いだ」とおっしゃってますが、結局、誰と戦うのでしょう?
山谷:
例えば、明らかに教師には向いていない教師が教壇に立ち続けるという、そういう事は本当に許されない。子供の未来を奪うことですから。きっちりと調査をして評価をして、それでもダメな場合は教育という市場からお引取りいただくようなことも含めて、戦って行かなければいけないと思っています。

教員免許を一度あげたらおしまい、ではなく、定期的な更新制にして、能力等をチェックする機会を設け、能力によっては更新を認めなかったり、給与に差をつけることも考えていると言う。 私も保護者という立場で学校現場を見ていて、本当に即刻子供達の前から消えてもらいたいような給料泥棒的な教師に出会うこともある。自分が子供だった頃より、明らかに質の落ちている教師がいると感じる。「子供の未来を奪うダメ教師は許さぬ」という山谷さんの姿勢は、その限りでは、強く応援したい。

■振り子を止める仕組みは、いずこ?

しかし、この制度は、諸刃の剣ではないだろうか? 誰がどういう基準で「この教師はダメ」と判定するのか。場合によっては、校長の意に沿わない意見を持つ教師が、給料を抑えられたり現場を外されたり、ということも起こり得るのではないか? そこが心配で、山谷補佐官に尋ねた。

下村:
ダメ教師に退場していただく制度ができた時に、その制度がエスカレートして行かないか、という懸念はありませんか? 《教える能力》だけではなくて、《考え方》によって、「この考え方の教師はダメ」というふうに…。
山谷:
そんなことは考えておりませんね。
下村:
山谷さんが考えていらっしゃらないのは分かるんですよ。でも、当初は良かれと思って作られた制度って、よく一人歩きを始めるじゃないですか? 私も、ほんと、「ダメな教師は退場して欲しい」と父親として思うんですけど、過剰に校長や上の意向に沿うように努力する教員たちがダーッと出てきちゃうっていうことになる懸念に、どう手当てをするか。そこを食い止めるブレーキとセットじゃないと、この免許更新制、やっちゃいけないような気がするんですけど。
山谷:
そのようなご懸念は全くないと思います。
下村:
今心配している人たちは、「今度は逆の極端に、振り子がスイングして来ないかな」と案じているわけですよ。山谷さんが《真ん中》に戻そうとしているのに、「勢いで《反対の端》まで行っちゃうことはないのかな」と。
山谷:
“逆のスイング”っていう意味が、ちょっとよく分からないんですが…
下村:
つまり今までだって、指導要領が改訂されるたびに、多くの教師が勝手に(“お上の意向”を)拡大解釈して、いろんな間違った教育が生まれてきた、と山谷さんはお考えなわけでしょう?
山谷:
(頷きながら)過激な性教育とかジェンダーフリー教育とかねぇ、困りますねぇ。
下村:
それと同じ(過剰反応)現象が、今度はそういう事で、起きませんか?
山谷:
そんなの、起きるとは考えられませんね。
下村:
なぜですか? 今までとどこが違うんですか? つまり、校長(などの決定権者)が教師の給料も左右できるし、ダメな教師に辞めてもらうことも出来るようになる、という中で、「現場の教師が、校長(決定権者)のご機嫌を伺わなくても済むための仕組み」っていうのは、どうやって保障されるんでしょう?
山谷:
むしろ問題は、校長の言う事を聞かなさ過ぎる学校の方です。それで親がみんな困っているんですから。「とんでもない教育をした」と校長の所に行っても、校長は何も出来ない。この現実をお知りになれば、これはそのような及び腰でこのまま放置していていいんですか?という事だと思います。

「大丈夫ですよ」ばかりで、制度の行き過ぎにどういうストッパーを仕掛けるのかという発想が感じられない山谷補佐官の回答に、私は唖然とした。この後も繰り返し尋ねたが、本当に私が何を案じているのか、ピンと来られないようだった。

■「常識の面から如何なものか」

性教育の行き過ぎに対して敏感に警鐘を鳴らす山谷補佐官が、何を根拠に「今度は平気よ」と言えるのかどうしても分からず、敢えて歴史の教師を例に取って、もっと具体的に尋ね直してみた。

下村:
例えば、教員免許更新のチェックをする時に、「この歴史の教師は、自虐(史観)的な教育をやっていないだろうか」なんてことも、チェックされるんですか?
山谷:
“自虐的”という言葉が私にはよく分からないですね。
下村:
山谷さんは、自虐的という言葉は使っていない?
山谷:
私は使っておりません。
下村:
では、日の丸と君が代の問題は?
山谷:
大事な式典に自分の国の国歌、国旗に対して非礼な態度をするという教育者が、保護者や子供たちの目からどう見られているのかと。強制というよりも、国旗、国歌を《尊く思う》という、普通の人間としての礼儀を教育の場所で教えている、ということだろうと思うんですね。
下村:
そう思ってない人は、(教育の場から)外れてもらう?
山谷:
(沈黙…)その、教師がですね、ちょっとその常識の面から如何なものかと、多くの保護者は思っていらっしゃると思いますよ。

靖国神社に毎週参拝しているという山谷補佐官が、国歌・国旗に対しても強い尊重の念を抱いているのは、分かる。その個人的思想を云々するつもりは毛頭ないが、「常識から考えて如何か」という表現が彼女の口から出てきた時には、怖いと思った。「これは常識だから従え」という空気が、横行する入口になりはしないか。山谷補佐官にそのつもりがなくても、段々空気がおかしくなっていって、ある日山谷補佐官自身が「こんなつもりじゃなかったのに…」とつぶやくことになりはしないか? 社会の空気とは、そういう風に徐々に変わっていくものだ。特定の悪役の陰謀よりも、“知らず知らず”の方が遥かに恐ろしいという感覚を、善良な山谷補佐官はお持ちでないのか。

■「詰め込み教育」なんて無かった!?

日本の学校教育界で近年ずっと議論が続いている、「ゆとり教育をどうするか」というテーマについては、山谷補佐官は、明確に見直し路線だ。私も、行き過ぎを是正するのは良いと思う。だが、これも戻しすぎると、以前の詰め込みカリキュラムに戻ってしまって、そもそも何が問題で「ゆとりを持とう」と言い出したのか、出発点がわからなくなって元の木阿弥になり得る。その点を尋ねると、「詰め込み教育」というものの認識について、私が全く想定しなかった答えが返って来た。

山谷:
受験戦争の過熱だとか、子供たちが詰め込まれているという議論がその時(「ゆとり教育」導入当時)あったんです。しかし(調査によると)、OECDなどで、家で最も勉強しない、先進国でトップぐらい勉強してない国なんですよ、日本の子供は。ですから、それも事実に基づいていなかった。
下村:
実際は、詰め込み教育という状態は無かった、と?
山谷:
はい。
下村:
私の実感とは違いますけどねぇ。
山谷:
エリートの人は、詰め込まれたトラウマがあるのかも知れませんけど、普通の人は、実態を調べてみるとそうじゃなかったんですね。ゆとり教育が“ゆるみ”教育、“ゆがみ”教育になってしまっている、ということが問題なわけで。今ちょうどカリキュラムの見直しの作業をやっていますので、それをできるだけスピードアップして、学習指導要領の改訂という所に、それも『教育再生会議』がエンジンになって、スピードアップして行ければと思います。

山谷補佐官の認識には、やはり同意できない。そもそも「詰め込み教育」の弊害とは、子供の在宅勉強時間の長さの問題が本質ではなく、カリキュラムがぎっしりで《教師にゆとりが無くなること》が問題の核心だったのだ、と私は思う。教師の質の向上も、免許更新制などによる管理強化より、「まず教師自身が、自己研鑽や一人一人の生徒と向き合う時間を充分に得ること」が出発点なはずだ。そこの認識がズレたまま「スピードアップで改革だ!」と言われると、「ちょっと待って」と言いたくなる。
山谷補佐官との対話は、初めのうちは共感できていたのだが、だんだん不安が膨らんで来てしまった。だが、全否定はしたくない。「あなたが行き過ぎていると思ったら、またインタビューに来ていいですか?」と聞くと、「どうぞどうぞ」と応じてくれたので、期待する部分は残しつつ、大いに警戒しながらこれからを注視して行きたいと思う。

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