JR福知山線事故から1年(1)/夫を亡くした原口さんの場合

放送日:2006/04/22

あのJR福知山線の脱線事故から、来週の火曜日(4月25日)で1年が経つ。私も『サタデーずばッと』の取材で、先週・今週と現地に行ってきた。テレビでは時間の関係で伝え切れなかった、ある一人のご遺族の胸中を、ここでじっくりご紹介する。

■止まったままの時間

原口佳代さんは、あの事故で結婚4年目のご主人を亡くした。お子さんはおらず、以前から続けていたピアノの先生を、途切れがちになりながら、事故の後も何とか続けている。

原口:
1年っていう気がしなくてね…うん。まだ時間が止まってて、まだ昨日のような…ままですね。
下村:
じゃあ、気持ちの移り変わりもなく、止まっちゃったままですか?
原口:
…料理はできないし、もうあれ以来、台所に立ってませんのでね…。
下村:
…そうですか。
原口:
はい。まぁ、外食に行くと少しは食べられるんですけど、家で作って食べようという事ができなくなってしまって。買い物に行ってもねぇ、なんか主人の好きそうな物が目に付くので、結局買わないで帰ってくる事が多くて。
下村:
昔やっていたようなこと、ピアノのレッスンとか、そういうことを再開したほうが元気が戻ってくる、ということはないですか?
原口:
…今は、ないですね。その最中はいいんですけどね、子どもたちの前では。…(レッスンを終えて家に)帰ってくるのもしんどいし。主人がいないなぁっていうのが時々思い出されて、ハンドル握りながら泣いてるんですけどね。

自宅に帰る車の中で、ふと泣いてしまう原口さん。ハンドルを握りながら思い出して涙ぐんでしまうという話は、他のご遺族の方からも伺った。普段自分の感情を抑えていても、車の中という、一人になれる空間では、思いが湧きあがってくるのだ。

■最後のメッセージが語るもの

原口さんの玄関にある表札には、今でも、夫婦二人の名前が仲良く並んだままだ。部屋には、いたる所に二人の写真が飾られている。居間の小さな祭壇の下には、事故現場から回収された遺品が並んでいた。

下村:
お財布と扇子と、電話、手帳。何か、佳代さんとのメールのやりとりとかも電話に残っていましたか?
原口:
あ、残ってます。なんか、しょうもないものですけど。
下村:
携帯は、こうやって(充電器に)差せば、またオンになるんですよね…。
原口:
そうですねぇ。しょうもないことしか、書いてませんよ。
下村:
いやぁ、夫婦の会話はどこでも、しょうもないことだと思いますよ。
原口:
これが、一番最後のメールかなぁ。
下村:
―――『牛乳、にんにく』!?
原口:
買って来いって。
下村:
ああ、最後の晩御飯の材料ですか。
原口:
そうです。あれ買って、これ買って、って。自分で料理もするんでね。もう、最後の晩は主人がカルボナーラを作って、私が横でピザ焼いてたんですけどね…二人で作業していたんですけどね。それがもう、最後の食事になっちゃって。
下村:
…あの事故の前の晩、ですか。
原口:
そう…。
下村:
一番最後にご主人から届いたのは、『牛乳、にんにく』ですか。
原口:
そうですね…(笑)。

事故というものは、何の前触れもなく、日常生活を唐突に断ち切る。買い物の注文の単語が最後のメッセージだったというのは、実に事故の理不尽さを象徴している。
祭壇には、原口さん夫婦が新婚旅行で買い求めた「ともしらが」と書かれた、木彫りの夫婦(めおと)人形が飾ってあった。共に白髪を迎える幸せを、この事故は一体、何組の夫婦から奪ったのか。

■JRに思いをぶつけても…

JR西日本との補償交渉は、遺族ごとに個別となっていて、全体像は掴みにくい。遺族の中からは、「まだ着手もしてない、そういう気分になれない」という声もよく聞く。原口さんもやっと、この4月上旬に弁護士が同席して、JR側との直接交渉に初めて臨んだ。

原口:
1回目、終わったとこです。
下村:
1回目、ですか? まだ。
原口:
はい、この日は、「私の気持ちをJRに思いっ切りぶつけなさい」って、弁護士の先生が。ほんとは、お金なんかいらないし。帰って来てくれたら、もうそれでいいんですけどね。
下村:
初めての交渉の場では、思いをぶつけられましたか?
原口:
結構、言いましたね、わぁわぁ泣きながら。私、一人っ子ですからね。子どももいないし。なんか、一人で不安もありますしね。もう本当に、返して欲しいなぁと思ったり、主人のところへ行こうかなと思ったり。…まぁ、それは先生に言われたんですけどね、「行っちゃだめよ」って。ほんと、「一緒に乗ってたら、一緒に逝けたかなぁ」と思ったりね。そんなことばっかり考えてるんですけどね。みんな、「頑張れ、頑張れ」って言うんですけど、もう頑張れないんですよね。…もう、目一杯なんでね。
下村:
そこで(自分の気持ちを)ぶつけて、何か少しは、胸のつかえが取れるようなことはありました?
原口:
いや、反対にもう…余計思い出してしまって。もう、運転士さんが一番憎くてねぇ。亡くなられましたけど。今度の25日の慰霊祭もね、「(慰霊の対象に)運転士を入れるか、入れないか」っていうのを、一度聞かれたんですけど。「入れないで下さい」って、私は言ったんですよ。

この時期に、周囲からの「1年が経ったのだから、気持ちに区切りをつけて頑張れ」という励ましの言葉は、善意からとは言え、却って辛いと思う遺族も少なくない。

■「前に歩けるかなぁ」の逡巡

そんな遺族の力に少しでもなれたらと、事故の負傷者の有志も動き始めている。「最期の瞬間がどうたったのか知りたい」という遺族の声に応えて、事故に最も近い目撃者として、記憶の断片を繋ぎ合わせようという取り組みが行われているのだ。原口さんも、今年の1月からそういった集いに顔を出すようになった。

原口:
ずっとね、声をかけられていたんでね。
下村:
事故関係の方と会われたのは、それが最初ということですか?
原口:
そうですね。「ぜひいらしてください、何かわかるかもしれないですよ。別に、自由な所ですから」って言われて。それで「ちょっと行ってみようかなぁ」と思って。「主人を覚えている方がおられるかなぁ」と思ったり。で、(主人と同じ)一両目に乗っていた方にお話ししたんです。ひとり女の子が乗ってて、怪我されてて。でも、(同じ車両の)中にはいたんですけど、「ふっと見たときには、もう(主人がいたはずの)前の方は真っ黒けで何も見えなかった」って、おっしゃってました。

実際に、今月9日の集まりでは、服装などの一致から、ある負傷者の証言で、ある遺族の求めていた情報が得られた。しかしこれは稀な例で、「過大な期待はすべきではない」と、集いの世話役も言う。とはいえ、集いを開いた成果であったことは間違いない。
原口さんのご主人の最期に関する情報は、今のところ、棺に書き添えられていた「一両目」という3文字以外、無い。ただ、亡くなる直前のご主人のことを、ほんとうにもっと詳しく知りたいのか、と問われると、彼女の気持ちは揺らぐ。

原口:
「知らなくてもいいかなぁ」と思ったりね。でもやっぱり、「知りたいなぁ」と思ったりね。
下村:
その半分のほうの「知らなくてもいいかなぁ」というのは、どういうときにそういうお気持ちになるんですか?
原口:
まだ主人が、死んだという実感が無いんでね。本当にまだ、帰って来そうな気がするときが、時々あるんですよね。
下村:
そうじゃないほうの半分―――知ることで、得られるかもしれないものって何ですか?
原口:
ひょっとしたら自分が、主人がいなくなったということを認めてね、「前に歩けるかなぁ」と思ったり…もするんですけどね。諦め…ではないですけど。「ああ、こうだったんだ」と自分に言い聞かせられるかなぁと思って。主人はいないけど、ずっと傍にいると思って、お料理もできるかもしれないし、もう、写真を見ても泣かないかもしれないし。

こうした、事故の当事者同士の情報交換の場は、有志の要請に応えてJR西日本も告知などに協力して実現している。しかし、答えるのが辛い負傷者(自身も心に傷を抱えている)に繰り返し尋ねることへの遠慮があるし、1年が経った今、もはや新たな情報が出るということもあまり望めない。ある世話役の方は、こういった集会を開けるのは今が最初で最後の時期かもしれない、と思っている。

原口さんのように、メディアの取材に応じて下さるご遺族は、全体の中では少数派だと思う。「取材になんか、応えられない」というご遺族の方のほうがずっと多いのだから、私達は、軽々しく「遺族の気持ちを知った」などと思うべきでない。1年を「区切りだ!」と思っているのは、メディアだけなのかもしれない。

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