地元の行政が産んだ、真摯な炭鉱映画

放送日:2006/04/15

先々週土曜(4月1日)に封切された異色の映画「三池〜終わらない炭鉱(やま)の物語」は、福岡県大牟田市が、プロの映像ジャーナリストに委託して一緒に作った、閉山した三池炭鉱の記録映画だ。地方自治体が企画したものとは思えないほど(と言っては失礼だが)、かなり突っ込みの効いた面白い映画に仕上がっている。
大牟田市職員たちと徹夜の激論を闘わせながらこの映画を制作した、監督の熊谷博子さん(眼のツケドコロ・市民記者番号No.25)にお話を伺う。

■《場の持つ力》に衝き動かされて…

熊谷:
当時、「あれだけの日本最大の炭鉱が閉山すれば町は寂れる、どうしよう」というのが、大牟田市にとっても急務の課題だったわけです。それで、「歴史を活かした町づくり」というシンポジウムを市が主催して、それに呼ばれて行ったんです。私は東京生まれの東京育ちですから、炭鉱のことはまるで知らなかったんですよ。その時初めて廃坑跡に足を踏み入れた瞬間に―――
(作品より)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ナレーション(熊谷): 私が初めて大牟田を訪れたのは、1998年の秋でした。ちょうど三池炭鉱が閉山して1年半経っていました。
この宮原鉱に立って、その瞬間、本当に地底からの声が聞こえてくるような気がしました。
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熊谷:
あれだけ《場の持つ力》というのが強い、と感じたのは初めてだったんですよ。これまでアフガニスタンの戦地などあちこち行っているんですが、これだけ魅力的な場が日本にもあったのかと、すごい衝撃を受けました。縦坑という、地下に人を下ろしていた場所なんですが、やぐらや、赤レンガのすごく古い建物があって、瞬時にこれはもう「撮りたい! 残したい! 撮るべきだ!」と思いました。

熊谷さんが登場するのは、103分の映画の最初と最後の場面のみで、あとはずっと、証言集という形で展開していく。150年もの長い歴史の間には、囚人労働、強制連行、労働争議、炭塵爆発と、さまざまな事があったが、それを72人にインタビューし、110時間の撮影で彼らの証言をつないで完成するまでに、熊谷さんと大牟田市職員たちは7年をかけた。

熊谷:
地元ではこれを《負の遺産》、マイナスの遺産として捉えている人が多かったんですよ。それにも私はすごいショックと、ある種の怒りを覚えたんです。三池の歴史って、日本の歴史そのものなんです。そこにかつて(炭鉱が)あったけれど「もう閉山したのだから、忘れて次に行こう!」というのでは、そこで必死に生きてきた無数の人たちの歴史を消し去るのか、と。そういう思いを込めて、映画制作をスタートしたんです。

すべてを過去の《負の遺産》として片付けたいと願う人がいる一方で、大牟田市役所の中には、熊谷さんの呼びかけに即座に反応する熱い心の人もいた。市は、この映画制作を「こえの博物館プロジェクト」という名称で予算化した。炭鉱の歴史を生の声で残そうというのだ。

■男たちを支えた女たちの歴史

映画は最初のうちは、いかにも行政が作った郷土の歴史ビデオという感じで、古い写真などを見せながら、ナレーションで静かに解説が続く。

(作品より)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ナレーター: [BGMに炭坑節]1926年に発行された古い写真帳からも、働く人々の声が聞こえてきます。1930年までは、女性も鉱内で働くことが許されていました。夫が石炭を掘り、妻がそれを運ぶことが多かったようです。小さい時から生活のために働いていた、女炭鉱婦たちの姿もあります。
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炭鉱の歴史のなかで、熊谷さんは、男たちを支えてきた女性たちにもスポットを当てた。

熊谷:
今まで炭鉱は男の世界と思われていたけれど、実は違うなと感じました。極めて元気で生き生きとした、たくましい女たちが出てきます。辛い話も本当に多いんですが、生き抜いた女性たちの力強さに、見ている私たちが逆に元気をもらう、そういう映画です。

映画ではこの後、三池炭鉱のいろいろな昔を知る女性当事者たちが次々に画面に登場する。その中でも最も度々出てくるのが、松尾さんという女性だ。

(作品より)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
松尾:
うちの母も、炭鉱主婦会で、頑張ってきたんですよね。そんでまあ、ずーっとその、筑豊から、なんか私たち親子は炭鉱に“繋がれた”感じで生きてきたって言うかですねぇ。
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熊谷:
松尾さんの祖母も母も炭鉱労働者で、松尾さんも小さい頃から(彼女たちに)ついて働いていたんです。三池に来て、自分自身は坑内で働いてはいなかったけれども、三池争議に加わり、夫も炭塵爆発事故でCO(一酸化炭素)中毒になり、それを支えて戦ってきたという歴史ですね。

■終わらない炭鉱(やま)の物語

このように映画では、淡々と様々な人が当時を振り返りながら語っていく。やがて、「総資本vs総労働の対決」とまで言われた巨大な労使激突の場面を迎える。その頃、炭鉱労働者達の団結の歌として歌われていた「炭掘る仲間」を、西脇さんという90歳を超えた老人が歌う。

(作品より)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
男性:
じゃから私はその、「炭掘る仲間」を歌うたびに、泣かずにはおれんです。あの時の手を繋いでやってきたことを思えば。
♪みんなぁ〜仲間だぁ 炭ぃ〜掘る仲間ぁ〜♪
…という歌でしょ。手を握り合って皆涙を流して、「炭掘る仲間」を歌うんですよ。(涙声)
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映画は、労使激突の時期の後、三池炭鉱史上最大の事故、458人の死者を出した炭塵爆発事故(1963年11月9日)へと向かう。労使対決シーンでは「思い出」を語っていた当事者たちが、この爆発事故のシーンでは、現在進行形で証言している。

熊谷:
(重い後遺症に悩まされている彼らにとって事故は)今もまだ終わっていない、続いているということなんです。

CO中毒で脳を侵され、正常なコミュニケーションが交わせなくなった、ある炭鉱夫の妻が語る。

(作品より)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
清水夫人: 何から何まで、あの爆発で新たに生まれ変わったような状態でしたね。そういう事から始まりましたから、それはもう、40年って一口で言いますけどね、並大抵ではなかったですね…。
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これを語っている妻の隣には、天真爛漫で無垢な表情の夫が、黙って座っている。何も語らなくなった夫との40年―――。

熊谷:
他の人達は皆、事故があったことすら忘れてしまっているんですよね。

当事者たちが、事故から40年以上経った今、再びカメラの前に出てくれた理由を、熊谷さんはこう見ている。

熊谷:
ひとつには、「このまま私達は忘れ去られていくのだろうか」という不安感がすごくおありになったようですね。それから、今頃、この話を聞きたいと言って来るマスコミの人が、実はいないんですよ。それが大きいですよね。

■行政マンたちの心意気

そうは言っても、こういった時代の証人とも言うべき人々が、すんなりと取材に応じてくれたわけではない。熊谷さんは、取材の依頼の手順に関して、こう語る。

熊谷:
いやぁ、なかなか難しかったところもありますね。「総資本vs総労働」という三池争議で町が二分して、そのしこりが40年近く経ってもまだ残っていました。それを丁寧に解きほぐしながらやる、ということもあって。それには、行政と一緒にやった、という部分が非常に大きかったですね。私は東京にいるわけですから、最初のコンタクトは行政の、大牟田石炭産業科学館のスタッフの方にやっていただく。二回目に私が一緒に会いに行って話をする。で、3回目にやっとカメラマンと一緒に撮影に行く、という丁寧な段取りがありました。

地元の大牟田市役所が、単に名目だけでなく、この記録映画の企画・製作のすべてに深く関わってきたということになる。中でも、石炭産業科学館の歴代事務局長たちの映画作りへの関わり様は、ものすごい。

熊谷:
ロケバスのドライバーも、自分の車を出して下さったり、まず最初に予算を採るだけで3年間かかったんですけれども、それを最初にやってくれたのも事務局長さんなんです。110時間もあるテープの編集も全部やってくれたんです。すごいですよ、それは。

―仕上げの段階では、皆で熊谷さんの家に泊まり込み、合宿状態になったそうですね?

熊谷:
そう、3回に分けて収録をしたんですけれども、出張費なんか、1回分しか出ないんですよ。でも必ず3人ずつ来てね。2回目、3回目は、本当に手弁当でした。我々でやるにも、大激論ですよ。毎回毎回、徹夜で議論して「ああだ、こうだ」やって、作り上げた作品ですね。

労使激突のシーンなど、このように社会が割れたような出来事は、普通、行政はあまり触れたがらないものだが、激論を繰り広げてでも、それを何とか直視していこうという市の姿勢には眼を見張る。

■「負の遺産」か、「“富(ふ)”の遺産」か

先々週木曜日(3月30日)、三池炭鉱の閉山9周年の当日に、地元の大牟田市で、完成後初めての上映会があった。

熊谷:
非常に珍しい上映会でした。大牟田市には、三池炭鉱の建物がいろいろ残っているんです。その一つに三井港倶楽部という古い洋館があって、100年くらい経っている建物なんですが、三井鉱山が経営悪化のために手放したんですね。それを壊すには忍びないということで、地元でそれを保存するための会社を立ち上げて、経営を新たに始めて、建物を買い取ったんです。その場所で、上映をしました。
(会場の)定員が150人だったんですが、電話があふれて、50〜60人以上の方に対してお断りするような状態でした。地元の方もキャンセル待ちが出ないかと、行列まで作って下さったんですよ。(観て)やっぱり、泣いてくださる方がとても多かったですね。

町の歴史を入れる建物=《器》を作ることに税金を使ってしまう自治体が多いが、大牟田市は、「負の遺産」と言われていた地元の歴史にフタをせず、出来る限りを《映像》に残そうと掘り起こし、勇気を持ってやり遂げた。

―この素晴らしい税金の使い方に、ぜひ、各地の自治体も続いて欲しいですね。

熊谷:
そう、私も、これが今後《大牟田方式》として定着して欲しいな、と思います。それはもう、「負の遺産」が、「“富(ふ)”の遺産」になると思いますね。確実に。

先々週末から、東京の『ポレポレ東中野』(東中野駅前)で、毎日1回午前10:50からロードショーが行なわれている。土日は上映に先立って、さまざまなゲストを迎えて、短いトークも開催されている。

熊谷:
会場には、三池炭鉱の石炭も展示されています。触ると暖かいんですよ、石炭って。植物ですから。
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