震災から11年、世界の被災者とつながる“KOBE”

放送日:2006/1/21

【1月17日収録】
今日で、阪神大震災の発生から11年。その朝を神戸で迎えられたばかりの、『CODE(海外災害援助市民センター)』事務局長の村井雅清さん(眼のツケドコロ・市民記者番号No.18)にお話を伺う。

■《走った10年》と《1歩1歩の11年目》

―今朝の5時46分、どんなふうにお迎えになりましたか?

村井:
そうですね、毎年同じ5時46分を過ごすんですけども、私どもの事務所の庭に観音様が立っておりまして、その観音様の前に関係者が集まって、追悼をして、私の話を手短にやって。つい先程までいろんなことを話してました。

―そちらの事務局は、わりと古い民家を借りたところで、中庭に、台座とあわせて2メートル近い高さになる観音様があるんですよね。何人ぐらいで?

村井:
今年は15人でしたね。

―いつも報道は、この日は大きな規模のイベントを紹介しますけど、実際にはあちこちで、こういう小さくいろんな方々が集まって、それぞれにやってらっしゃるんでしょうね。

村井:
そうですね。本当にそれぞれの5時46分というのを過ごして、その日1日をいろんな思いの中で過ごされてると思いますね。

―10年という節目が去年(2005年)で過ぎて、今日は11回目の1・17だったわけですが、何か去年までと違うところはありましたか?

村井:
そうですね、今まで10年、本当に走ってきたというか、やっと10年だよねという感じがしてたものですから、これから先は、そんなに走らなくてもいいじゃないかと。むしろ確実に、1日1日、1歩1歩を過ごしたいな、という思いがあったものですから。

■休む間もない、海外への恩返し

『CODE』が発足したのは、4年前の1月17日。その定款を一部、ご紹介する。

第3条 本会は、阪神・淡路大震災やその後の海外での災害支援経験に基づき、専門家を含めた幅広い知恵や能力を持つ市民が、問題を共有しながら互いに協力して、海外の災害被災地の主体的な市民と協働しながら、生活再建や復興を支援することを目的とする。

村井:
実は4年前でなく震災直後から、被災地のNGOやNPOだとか、もちろん被災当事者も含めていろんな人達が、「海外からの支援にお世話になったよね」ということで、「困った時は《お互い様》だよね」という思いがあったんです。
で、同じ1995年の5月にロシアのサハリンで大きな地震があって、その時、被災地の多くの人達が、毛布を集めたり防寒着を集めたりして、サハリンまで運んだんですよね。それが1回目の《お互い様》の活動としてのスタートです。

―震災ボランティアの人達が母体となって、どんどんお返しを重ねていって、2002年から今の形になったということなんですね。『CODE』にとっては、どんな4年間でしたか?

村井:
残念なことですが、毎年毎年、とにかく災害が大きくなっていってるし、複雑にもなってるし。この11年間で、パキスタンを入れて38回の救援活動をしてきました。国と地域で言うと、22になります。1年で4回弱、2つの場所で何かしら大災害が起きてるということになるわけです。

■スリランカの漁村の「勇気をください」

―その38回のうちでも、誰の頭にもパッとよぎるのは、インド洋の大津波ですよね。つい最近1年が経ったところですが、村井さんも現地に行かれたんですか?

村井:
ええ。先月(2005年12月)いろんなメモリアルが現地であったんです。私達が支援しているスリランカの南部でも、そういうセレモニーがありました。たまたまその時期に支援活動に行っていた私も、それに出ることができまして、非常に感動のひとときを過ごしました。

―大きなイベントというわけではなく、小さな漁村のコミュニティーで。

村井:
そうです。100人位が集まって。感動的だったのは、1年経って、村の女性達がスピーチをしてくれたんですけど、「私達はお金の支援を求めているわけじゃありません。勇気をください」と。

―支援する側としては、「勇気をください」と言われた時に、どう応えていこうと考えましたか?

村井:
それはね、私達は災害救援のNGOですが、レスキューとか緊急医療とかの専門性を持ったNGOではなくて、この神戸の長い道のりの中で復興してきた、そのプロセスでいろいろ《学んできたこと》を伝えたいという団体なんです。つまり、(「私達はこれが提供できます」という明確な)形というのは無いわけですよね。
だけど、「復興の為には、何が大事か」ということを伝えたいという思いがありましたから、そういう意味では、「本当に復興というのは大変だけれども、結局は自分達1人1人が、キチッと自分の暮らしと向き合って、本当にこういう暮らしでいいのか、ということからスタートしないとダメなんですよ」と言ってきたんです。

■「まけないぞう」が生んだ拍手

村井:
現地のセレモニーでは、非常に素晴らしいモニュメントを、発砲スチロールで作っておられたんですね。津波の背景のなかに、裸になった男性と女性とが、手を合わせて災害に立ち向かうという表現をしてるんです。僕は、それはすごく素晴らしいデザインでいいなあと思ったんです。

―そういうものが、村に立ててある。

村井:
それで今回、「まけないぞう」を1つだけセレモニーに持っていきました。被災者が10年間ずっと、今もそこそこ作り続けてきたクラフトです。

―「まけないぞう」というのは、手作りの象さんの形のタオル人形ですよね。あれは、もう本当に震災直後から始まってましたよね。

村井:
セレモニーでスピーチさせてもらいながら、その「まけないぞう」を引っ掛けるところを探してたんです。そのモニュメントに「まけないぞう」を置くなんて、とてもじゃないけど僕は考えられなかったもんだから。そしたら、主催者の方が、「ここに置いておいていいですよ」っていう感じで私を誘導して、そのモニュメントの手のところにポッと置いてくれんたんですよ。
その瞬間、ダーッと拍手が起きましてね。もう、何も語る必要が無いんですよ。やっぱり、痛みを一緒に共有して、「《支え合いの連鎖》というのは、こういうことなんだな」というのを体感できましたね。本当に素晴らしい経験をさせてもらいました。

―現地の被災者の皆さんも、大震災があった“KOBE”というのをご存知なんですか?

村井:
はい。

―じゃあ、「その体験を持って来てくれた」ということを、はっきり意識してくれていた、ということですね。

村井:
そうですね。だから(女性達の)「勇気をください」という言葉は、単に「(勇気の出る)スピーチを(して下さい)」という意味ではないんです。それがよく分かったのは、私のスピーチが終わると皆がすぐに集まって来て、「『まけないぞう』の作り方を教えてくれ」と言われた時ですね。

―今度現地に行ったら、「まけないぞう」がたくさん売られてるかもしれないですね(笑)。

村井:
もしそうだったら素晴らしいですけどね。

スリランカの小さな漁村で、自然に沸き起こった拍手。現地と神戸の体験から滲み出る想いが、ポンとつながったような出来事だ。

■“年1度だけ”の報道の影で

先日、「世界の1年を振り返って次の1年へ」というシンポジウムが、『CODE』の主催で、神戸で開かれた。

―シンポジウムのサブタイトルで、「スマトラ沖”TSUNAMI”から1年、阪神・淡路大震災の経験は生かされているか?」と問いかけていますけど、実際に生かされていますか?

村井:
100点満点かどうかは別にして、この1年間はそれぞれの立場の方が、スマトラ沖の被災地に関わられて、先程の私どもが経験した感動の出会いと同じようなことに、インドネシアのアチェや、タイなど各地で遭遇しておられます。だから、11年前の神戸での経験は、きちんと生きているんだな、ということを感じましたね。

―システムとしてというよりも、震災体験者が語り継ぎに行ったりすることで、継承されているということですか?

村井:
はい。システムはこれからですね。だからこそ、今からしっかりとそれを作り、そのシステムを1人1人の住民が熟知して、地域の暮らしの中に根付かさなければいけない。そういう意識を、今キチッと持とうとしている。非常にゆっくりした歩みかもしれませんけど。
1年経ったのにまだ警報システムができてなくて、実は私も、「何なの!?」という思いもあったんです。でもやっぱり、最初の1年というのは、喪に服すとか色んなことがあって、そんなに次へ次へとは進めないんですね。そんな中で、防災教育だとか、神戸の経験なんかを伝えていくと、「やっぱりまず、津波警報システムというのが作られなければいけないんだ」ということを、多くの人が徐々に共有していくのかなと思います。

このシンポジウム開催が今月8日(日)、そして今日「1・17」があって、この後も集まりが目白押しだ。
・ 18日(水)「防災シンポジウム2006−安心できる学校、住まい、地域づくりを目指して」
・ 19日(木)「第2回国際防災復興協力シンポジウム」
・ 20日(金)「国際防災・人道支援フォーラム−大災害を語り継ぐ」

―全国メディアだと、1月17日の追悼イベントしか見えなくなりつつありますけど、着実に地道な取り組みが行われてるんですね。

村井:
そうですね。この間いろんな経験や議論をしてきて、それを確実に次に残していくためには、まさにシステムにしていかなければならないし、あるいは、キチッとした理論や技術を積み上げていかないといけません。10年経って「やっと」という感じですが、今からそれぞれの専門分野で、それそれの《得意技》を活かしたものが、形になったりするのかなと。

■《お互い様》のキャッチボール

私も、この『CODE』のメーリングリストを拝見しているのだが、団体名に「海外」と銘打ってはいるが、つい最近も「中越地域に雪下ろしのボランティアに行こう!」という呼びかけが載っていたり、足元もしっかりと見ている。
村井:
国内の方ももちろん、やはり優先的にやらざるを得ないですから。今回の雪害なんかは、日本全国どこもかしこもという時期が年末ぐらいにあって、本当に「困ったな」というのが実感です。でも、これから来年、再来年もこういうことはあるんだろうなと思うと、今、キチッと雪害に対するボランティアの有り様というのを経験して作っておこないと、という思いはあります。

―単に、今目の前にある雪を下ろしに行くだけではなくて、そこでまた経験を積んで何かを見出さなきゃいけないと。

村井:
そうですね。「ある時期は、本当に皆が助け合いをしないとダメなんだ」ということを認識しないといけない。
私達はこの間、本当に皆さんの支援のおかげで、ここまで来れたわけですから、それをしっかりと返していくということが、責任のひとつかなと。これを僕は、《被災地責任》という言い方をしてますけど。
そして、(そのお返しを受けた側でも)それを責任のひとつだと捉えていただいて、また私達に返していただければーーーというのが、本望ですね。

―キーワードはやっぱり《お互い様》ですか?

村井:
はい。やっぱり日本で言うこれが一番、ピッタリくるんですよね。《お互い様》というのがね。
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