『そして神戸』代表の「震災10年」

放送日:2005/1/29

前回に引き続き、阪神大震災の10年に着目。震災後、しばらくの間は頻繁にメディアに登場していた、行動する被災者団体『そして神戸』の元リーダー・上野泰昭さんの今をご紹介する。
震災からちょうど10周年にあたる今月(1月)17日、神戸市・三宮にある、上野さんが営む小さなスナックへ開店前にお邪魔して、お話を伺った。

「震災は会社を倒産させ、人を失業させるけれども、1つだけ壊さないものがある。それは《借金》だ。」―――これが、上野さんが常々ぼやく名言である。

上野:
(店の立ち上げ等で)3000万円の借金を抱えていた時に、あの地震ですよ。その時私は51歳でしたからね。20歳の時ならお金がなくても頑張ったけど、これからもう一度あの苦しみは、とてもじゃないけど「もういいわ」と。「もう死のう。十分に闘ってきたんだから、神様も許してくれるやろう」と思ってしまいました。
でもその時、孫が生まれたんですよ、1月31日に。その子に「おじいちゃん、何もせんと死によった」と言われるのは、しゃらくさい。だから、手持ちのお金が900万くらいあったんですけど、このお金でしばらく闘ってやろうと。

人間って、「私は困ってる」って言えないんですよ。おそらく、マイクの前で「これだけ借金があって大変なんです、死にそうなんです」って言った被災者は私1人だと思うし、これからも1人だと思いますね。でも、1人でも目立たないと。1人で、1万人、100万人の代弁をしない事には、ダメだという事で。

そこで上野さんは、被災者の経済的苦境に焦点をあてて、「被災者に仕事を与えよ」と訴える団体『そして神戸』を仲間達と設立。その後、本当に様々な活動を連発する。震災が起こった年の9月には、地震のために結婚式を挙げそこなった被災者カップル3組の合同結婚式を開き、団体名が縁で付き合いが生まれた歌手の前川清さんがゲストとして登場、『そして神戸』を実際に歌ったりもした。

それから10年が経った今、《復興》という言葉の定義を、上野さんはこう語る。

上野:
「震災」とは何かっていうと、我々から納税する能力を奪ったもの。じゃあ「復興」とは何かっていうと、その《納税能力を回復した時》なんです。神戸市の税収が震災前のレベルに戻った時が、「復興」と言える。貴重な税金を復興につぎ込む以上、そのお金は、被災地の税収を回復させるために使わないと駄目なんですよ。税収っていうのは、市民が仕事をしないことには発生しない。だから、「我々に仕事をさせてください」と。各企業を回って、「被災者を雇用してください。我々は人間なんだ」と、訴えたんです。

震災の翌月13日に『そして神戸』を立ち上げた時、「くれ、くれ」と求めるのはやめようという方針を立てました。「働いて立ち上がろう」と。神戸市にも、「業者に発注するよりも、専門的な知識や技術がいらない土木事業なんかは、被災者を雇用してやらせてください」と働きかけました。

《被災者自身が街の再建などに関わって、それ自体を自分達の収入を得る道にしよう》という発想は、その後、新潟中越地震などでも徐々に生かされて来ている。
以前、このコーナーでご紹介した山古志村の雪下ろしも、その一つの例だ。

10年経って、街並みは美しく戻りつつあるが、上野さんが指摘するような《個人の経済状態》という意味では、確かに、復興したとは言い難い。
震災当時に神戸市が被災者に貸し付けた『災害援護資金』の返済の実態を調べてみた。震災のあった年、神戸市からの市民への貸付は、3万1千件、777億円あった。当初は「10年返済」という事になっていたので、予定ではそろそろ返済が終わる時期。しかし実際は、3万1千件のうち、1万7千件・233億円が未返済。そのうち2000〜3000人については、借りた金額の1割も返せていない。また、7300人は、10年返済を諦め、長期少額返済という形に、神戸市と契約し直し、苦労を続けている。

こんな中、どうにもならずに自殺をして、生命保険金で借金を返そうとした人も、実際に相次いだ。自殺という道を選んでしまった人を、震災の直接の被害で亡くなった人と比較して、「ダメな人間」と白い目で見ないでほしいと、上野さんは強調する。

上野:
今日も、震災犠牲者6433人の御霊鎮まれと、集会がありました。ところが、自殺した人たちは、バッシングこそされ、慰霊もされない。褒めろとは言わないけど、せめて家族への配慮をしてほしい。家族は精一杯、支えてますよ。私の息子なんか、給料のほとんどを、私達の借金返済と生活費に入れてくれてるんですよ。女房もパートで働いて、必死になって支えてくれてるんですよね。だから非常に悔しいですよ。そんな人たちが、これからも続くんですよ。もう少しそこは、マスコミの皆さんも含めて、ご理解をいただきたい。こんな事、誰も言えないんですよ、恥だと思ってしまいますから。

震災というのは、神戸だけの問題ではなくて、どこの地域でも、明日起こるかも知れないんですよね。私の子供も、必ず災害に遭いますよ。その時、私と同じように、ゼロからこんな闘いをさせるのはあまりにも不憫で。だから、どんな形でもいいから、マスコミには「こんな事があった」と伝えてほしいんです。私達が何を訴え、どうして運動していたのか。10年経ってどうなってるのか。だけど、ほとんど取材されてないんですね。

そういう目で取材をしてみると、確かに、苦しんでいる方は現実にたくさん見えてくる。上野さんとは別の被災者Kさんには、実際に神戸市への借金返済用ハガキを見せていただいた。Kさんの場合は、震災後、350万円を神戸市からの災害援護資金で借りた。当初5年据え置きの後、毎年72万ずつ返して10年完済の約束だったが、結局今、月々の返済額は1万5千円。このペースだと、単純計算して230ヶ月以上という、長期の負債を負っている。

こんな現状の中では、『そして神戸』の存在はまだまだ必要に思えるが、先鋭的に活動する団体にありがちな展開で、メンバーが1人減り、2人減り、内輪モメまで起きて疲れ切り、ボロボロになって力尽きてしまった。団体としての活動は、もう行なわれていない。

しかし、震災1周年の日、上野さんの呼びかけに応じて全国各地で一斉に行なわれた「鎮魂と希望の太鼓」という行事は、実は今でもあちこちで続いていた。今回も上野さんの元へ、日本中あちこちの和太鼓グループから、たくさんのFAXが届いた。その1枚をご紹介する。

ご無沙汰しております。お元気にしていらっしゃいますか?いわきでは、今年も「鎮魂と希望の太鼓 チャリティコンサート」を今夜(1月17日)行なう事をご報告します。思えば9年前、新聞の片隅に、上野さんの呼びかけの下に行なわれる「鎮魂と希望の太鼓」の記事をみつけ、「こういう事に賛同したい。これなら出来る事」と思った事が始まりでした。以降、毎年必ず打ち続け、寒い公園でやったり、練習日をこの日に合わせてやったりしながら、今に至っています。好きな和太鼓を通して、温かな思いを共有し合いたい。鎮魂と希望の太鼓は、私達にとって、その一つの象徴です。上野さんに改めて、その声かけをしてくださった事に、感謝申し上げます。神戸の皆様と、そして上野さんご自身が、よりお幸せになられるよう、心よりお祈りしております。
では、今夜、心を込めて演じます。

上野:
1回目の時にね、「我々は弱小な組織だから、この先、度々いろいろなお願いは出来ないと思います。お金もないので、おそらく多くの団体に連絡する電話代もないでしょう。だから、これから未来永劫、1月17日には、太鼓を叩いていただきたい」という事を、切にお願いしたんですね。
その後、毎年こういう風に、「叩きました」「頑張ってください」とFAXをいただくんですよ。本当に嬉しいですよね。人の優しさが、こうして繋がっている事が。今、分かってるだけでも120団体くらいが叩いて下さってる。1回目は330くらいだったんですよ。今10年経ってもまだ、こういう激励をいただくのは、本当に嬉しい事ですね。

1月17日は、メディアも人々の意識も阪神に集中しがちだが、今でも全国で、こういう激励の行事が続いているのだ。
さらに、もっと上野さんを喜ばせる出来事が、この前々日にあった。『そして神戸』として活動していた頃、上野さん達は、厚生省に直訴をするために東海道を歩いて東京まで行った事があったのだが、その途中で出会った高校生達がいた。上野さんの話を聴いて触発されて、その後、その子達を核とするグループはずっと震災にまつわる活動を続け、そこから生まれたカップルが、ついに1月15日に結婚式を挙げたのだ。

上野:
出会った時、彼らは15歳だったですかねえ。高校1年生でしたよ。彼らの担任の先生が、我々の活動をたまたまラジオで聴かれてね。「こんな事をしている人がいるから、学校に呼ぼうよ」と。初めてそこで、私の携帯に電話がかかって。夕方、6時くらいでちょっと暗くて、暑い時でしたね。彼・彼女達が拍手で迎えてくれてね。本当に、涙が出ましたよ。

そして10年経って、彼らがもう25歳でしょう。我々ごときに、結婚したっていうことで知らせてくれて。本当にもう、すごい事ですよ。(涙)
私も31歳の息子がいるんですけどね、私を支えるために、彼女がいるんだけど結婚せずに、やってくれてるんですよ。
―――こういう嬉しさと、……悔しさと、……。本当にもう、不思議なね…10年ですよ。

昨年は、中越地震、インド洋の大津波と、大きな災害が頻発した。その都度、メディアと人々の視線は移り変わっていくが、人によっては、10年前のあの震災が、今も続いているのだ。今回私が神戸一帯で話をした震災被災者の中には、むしろ10年という節目を過ぎてしまった事で、ますます注目されなくなっていくこれからが辛い、と言う人も少なくなかった。

▲ ページ先頭へ