ある広告代理店マンの「震災10年」

放送日:2005/1/22

阪神大震災から丸10年を迎えた今週月曜(1月17日)、神戸市主催の追悼式に行った。現地で沢山行なわれた当日の行事の中でも最大規模だったこのセレモニーに、ある形で深く関わった平野卓雄さんという方に、今回は着目する。

10年前のあの日、一緒に暮らしていたお母さんを亡くした平野青年(当時25才)は、その一部始終を、手記にまとめた。その手記を、震災1周年の日に、当時私が担当していた『スペースJ』という番組で、女優の浅野ゆう子さん(神戸市東灘区出身)が、延々23分近くにわたって朗読した。現場の映像をごく僅かしか挿入せず、殆ど朗読者の姿だけを画面に映し続けたこの放送には、視聴者から「どんな映像よりも、震災というものがよく判った」といった声が数多く寄せられ、大きな反響を呼んだ。

今週の追悼式の話の前に、その手記をあらためてご紹介する。(ここに掲載するのは、『スペースJ』放送用に、当時、同番組スタッフが平野さんの同意を得て原文から抜粋した短縮版で、削った部分を短く代弁するため、及び描写を補うために、原文には無い新たなセンテンスが、ごく一部加えられている。)

(平野さんの手記より)------------------------------------------------

■震災前日

翌日から東京へ出張する予定だったが、友達と会うために1日早く行くことになり、母親に近くの駅まで送ってもらう。車に乗り、いつものように僕が運転して、母は助手席に座った。母はテニスに行く直前で、車中は2人とも無言。駅に着き、車を降りて、僕は母にいつものように「ありがとう」と、一言いった。
「ありがとう」…これが、僕が母に語りかけた、最後の言葉だ。何もかもが、いつもと同じだった。街の情景も、母との会話も、休日の我が家も、「ありがとう」も…。僕はなぜ、あの日、東京に行ってしまったのか。最後に交わした言葉が「ありがとう」なんて、あまりにも出来すぎだ。余りにも沢山の、後悔を覚える。

年甲斐もなく、ユーミン(松任谷由実)の歌が好きだった母。「ユーミンのコンサート、行きたいわぁ。切符、取ったってネ」と僕に頼んで来た母。ユーミンの当時の歌『春よ来い』は、その後の僕の励みになった。歌を聴くたび、胸をしめつけられる。母に、ユーミンを見せたかった。

■震災当日

東京のホテルで目覚めたのは、朝の7時頃。何気なくTVのスイッチを入れると、どこかで見た、そして信じられない光景が映し出されていた。神戸がつぶれている。画面を食い入るように見る。沢山の火柱がのぼっていたが、私の自宅付近では、火が出ていなかった。
急いで自宅に電話するが、繋がらない。会社に電話すると、僕の兄から、「全員無事」の知らせが入ったという。やっと安心してTVを見るが、信じられない光景の連続に、恐怖を覚える。
昼過ぎにもう一度、会社に電話すると、「母親行方不明」との知らせ。全身から力が抜け、なんとも言えない脱力感。吐き気さえ催す。最終の大阪行きの飛行機を押さえ、羽田に向かう。
空港に着くと、TVでは、死亡者の名前を発表し始めていた。東灘区の発表になると、TVを見ていられなくなる。飛行機の中で、スチュワーデスにありったけの夕刊を持ってきてもらう。新聞を見ると、自宅付近のビルが倒壊しているのが載っていた。覚悟を決めた。

関西空港に着き、大阪に住んでいる会社の先輩が、車で行ける所まで送ってくれる。先輩は、車の中で僕にこう言う。
「平野、神戸はお前の想像を超えている。」
僕は答える。
「もう、無理やと思ってますから…」
2人とも、沈黙。
途中からは、先輩の自転車を借り、神戸に向かった。神戸までどのくらいかかるのか。
「お母さん、待っとけよ。助かっといてくれ。」自転車を全力で走らせながら、声を出して叫んだが、自分でも気味悪いほど冷静だった。
そして自転車を降り、歩いて芦屋川を越える。今でもはっきり覚えている。地獄がそこにはあった。僕は道なき道を進む。ガスが漏れ、人々は路上でたき火をして寒さをしのぐ。僕が歩く30メートル前で、電柱がいきなり倒れた。
友人達の家が、跡形も無く倒されている。心の中で手を合わせ、自宅へ向かう。「ここで俺も死ぬ。」本当にそう思った。生まれて初めて、死を覚悟した。

真夜中3時過ぎ、自宅に近づく。近所の交差点は、方角がわからないほどビルが国道まで倒れ、道を塞いでいる。商店街へ入ろうとするが、全ての道が塞がれている。とにかく、街全体がつぶれているのである。つぶれている……この表現以外の言葉が、思い浮かばない。
火事も出る。自宅付近の商店街が燃えている。もうもうと燃えているのに、人々は平然としている。消防士も警察も、火を消すどころか、交通規制に忙しい。自宅への道も通してくれない。「母を捜しに来た」と言ったところで、耳を貸さない。本当に異常な世界だった。
完全につぶれた建物を通り越し、自宅に近づくにつれ、心の中が異様なほど、静まっていく。どんどん心が静まっていくのだ。
人は誰もいない。この街、この国に私1人しかいないような感覚…。自分の心臓の音だけが響く。救急車やパトカーのサイレンが鳴り響いていたはずなのに、あの数百mだけは、何も聞こえなかった。
あの時、僕は悲しかったのか、恐かったのか、辛かったのか。今思い出しても、わからない。とにかく1/17の朝からずっと、冷静だった。なぜかは、わからない。
自宅へ向かう道のりで、全ての感情をなくした。そうだ。感情を失くしたのだ。悲しくもなく、恐くもなく、ただ信じられなかった。自分の目の前の光景が、信じられなかった。

自宅のすぐ手前の路上で、呆然と肩を落として座っている一人の男を見つけた。僕の兄だった。小さな声で「アカンわ…」と、今まで見たこともない顔で言う。
「何言うとんねん、中におるんやろ、すぐに出したらんと。…まだ生きてるかも知れんやろが!」
兄の手を引き、僕は自宅に向かった。

自宅を見た。わけがわからなかった。理解するのに時間がかかった。
気付いた。無い。1階が無い。
「裏から見てきたら、もう、もっと無茶苦茶や!」
兄が言ったが、見る気にはならなかった。その時、余震が来た。屋根の瓦が落ち、更にメキメキと家が崩れる。本当に怖くなった。そして、母はその中にいると確信しておきながら、その場から僕は逃げた。あの時、それでも助け出していたら、…今から考えるのは無駄だとわかっていながら、今でも毎晩、その事を考えてしまう。

■震災翌日

朝6時半頃、夜が明けた。異常な程、寒い夜だった。夜明けと共に母を救出に行こうとした時、警察からただちに山側に避難するよう言われ、街中の人々が民族大移動の様に、体を毛布にくるみ歩き出した。歩いて行くうちに、昨日は暗くて見えなかった部分が、あまりにもすごい事に気づく。「僕のふるさと」は、全く無いのである。よく通ったパチンコ屋、安いだけの焼き肉屋、犬が手当てをうけた獣医、……信じられない光景が続く。
2時間ほどして、自宅に戻った。2階の部分が、母の寝室の周辺に向かって崩れている。ガラスを割って入ったが、中は無茶苦茶。母を必死に呼び続ける。声が震えるのがわかる。当然、声は返って来ない。返って来たかもしれないが、ヘリやサイレンの音でとても聞こえない。
もし、あの日、東京に行かずここであの地震に遭っていたら、私は恐らく狂っていたと思う。とにかく、目の前で家が粉々につぶれてしまって、母親が埋まっているのだ。

 やがて、自衛隊が来て、家の中に進んだ。何かホッとした。隊長と思われる人が母を呼ぶが、応答なし。応答のない人は、近くで生き埋めの人々がまだいる為、後回しにしているとのこと。せっぱつまった僕は、
「母の声がします!すぐに助け出して下さい!!」
と、ある隊員に迫った。
「わかりました。今、腰の骨が折れた御老人を救出してます。まだ生きておられます。それが終わったらすぐ向かいます」
との事。うそでもつかないと、状況は変化しようがなかった。
その後、自衛隊員が戻って来て再び母の名を呼ぶが、応答はやなり、無かった。隊員たちは、屋根にのぼり、天井をはがして行く。そのうち私は、見ていられなくなってきた。とにかく、母が発見されたその時を見ることが怖かったのだ。
4時間近く経った時、ある隊員が僕達を呼んだ。僕は行く事ができず、兄が行った。そして、ガレキを踏み分けて中へ入った兄は、僕の所へ戻って来て、こう告げた。
「足があった。……冷たい。膝から上は…、見えない。」
僕は泣いた。壁に頭をぶつけながら大声で泣いた。
やがて、屋根にのぼり、僕もその状況を見ようと何度も何度も思ったが、足が動かなかった。母の今の姿を見る事はできなかった。ただ子供の様に泣いてるだけだった。

―――僕の父は、11年前にガンでこの世を去った。まだ中学3年でテニスに熱中していた僕は、全国大会に向かう朝、父の死を知った。それから大学を出るまでの7年間、母と2人の生活が続く。兄は、母とケンカして家を出た。僕は月謝の高い神戸の私立大学に通い、毎日テニスに明け暮れた。父がいなくても、いくらか経済的に余裕があると僕は決めつけていたが、実はそうではなかった。父の死後、母はパートを始め、ずっと生活を支え続けていたのだ。卒業後、その事に気づいた。
この年の正月は、母子全員が揃った本当に久し振りの正月となった。母が、ここ何年か振りの笑顔を見せた。
「今日ほど、子供を産んで良かったと思った事は、ないわ。」
と言いながら、泣いた。僕は、この母が少し誇らしかった。
その数日後―――地震は起きた。

「お母さんは幸せな人生やったんやろか?」
兄に尋ねながら、僕は近くの壁を叩いて何度も泣いた。
自分の存在が、嫌になってゆく。なぜ、あんなに苦労した母が、こんな目に遭わなければいけないのか? 母は最期に何を思ったのか…。
「これは一体、何なんや!」 「こいつら一体、誰なんや」 「ここは一体、どこなんや」 「なんで知らん奴らが、うちのオフクロいじり回してんねんや」
夕焼けに浮かび上がる迷彩服や消防服の男達を見ながら、僕はそう思った。
やがて、毛布にくるまれた母が、沢山の男達に抱えられて、降りて来る。スローモーションのように、その光景は覚えている。私と兄は、もう死ぬまでに出すことの出来ないような声を上げて、泣いているだけだった。母に何度も「ごめん」と叫び続けていた。
救急車は、いくら待っても来なかった。生存者を運ぶのに精一杯で、遺体まで車が回らないとのこと。神戸周辺で凄まじい死者が出たことを、初めて知った。

■遺体安置所

遺体安置所が神戸商船大学に設けられ、やっと車で大渋滞の中、たどり着いた。安置所までの道のりは、3日前、母が駅まで送ってくれた同じ道のりだった。そう思うと、再び涙が出る。片手でハンドル、片手で後部座席の母をこすりながら、何度も「ごめん」とつぶやいた。

何とか、母の遺体は商船大学に置いてもらえることになった。教室の中に、120体の遺体が運ばれていた。僕は、母の遺体をきれいに拭いた。懐中電灯で、母の顔を照らし、拭いた。
教室では、やがて検死が始まる。母の番になり、顔にかかった布を取る。検死官が、
「おしゃれなお母さんやね」
と言った。それを聞くと、涙が止まらなかった。
地震の前の日、遅くまでテニス仲間と酒を飲み、疲れて帰って来た母は、そのままアクセサリーも取らず床に就いていた。耳には、僕と兄が結婚する際、嫁となる女性に一つずつ渡すつもりだったというダイヤのピアスがつけられていた。
1分足らずで検死は終わった。「圧死」。…この2文字だけである。もっと詳しい死因を聞きたかったが、検死を待つ人々が沢山いるので、とても聞けなかった。

遺体安置所の中で、僕の人生観は変った。僕達は、この中では幸せな方だと思えた。母の両側の遺体は、身元不明の老人で、いつまで経っても誰も訪ねて来ない。その後方では、小さな遺体に向かって、30代半ばの男性が、何かつぶやいている。よく見ると、亡くなった自分の子供に、絵本を読んでいた。その子は2才になったばかりで、まるで人形のような顔をして亡くなっていた。その人は、奥さんも亡くし、家族で1人生き残っていた。夜通し、その人は子供に絵本を読み続けた。僕は、線香と土を、その人に持って行った。
自分なんかより不幸な境遇の人々ばかりだった。そんな人々を見て、「僕の母は幸せ」と思い込まねば、自分が壊れそうだった。

その翌日、棺桶用の板が、村山首相の命で安置所に届く。膨大な量だ。釘も金槌も無かったので、誰かが、倒壊したビルから鉄パイプを引き抜いて持ってきた。
僕と兄も棺桶を作った。身元不明の遺体も沢山あるので、誰の分か判らないけど、沢山の人々皆で、沢山の棺桶を作った。そして、そこにいた人々皆で、1つずつ遺体を入れていった。遺体は重かった。首の後ろを持つと体から液体が出ていて、いくら洗ってもその臭いは取れない。しかし、そんなことを気にする人はいなかった。何十体もの遺体を、僕達は棺桶に入れ続けた。

■1週間後

悲しいのか、何なのか、分からないうちに日々は過ぎていった。その日から、火葬までの日々はあまり覚えていない。毎日、兄弟で実家に行き、ガレキの中から物を取りだす日々だったように思う。
母親が死んだということを自分の中でやっと認識できたのは、1週間後、火葬場で母の骨を拾う時だった。不思議と、涙は出なかった。長い映画を見終えたような感じだった。
やっとTVを見られるようになったのも、この頃からだ。TVでは政府の対応を非難していたが、我々から見ると、政府は良くやってくれていた。あんな状況であれだけ出来れば、大したものだと思う。非難しているマスコミこそが一番、よく考えて欲しいと思う。本当に、報道は最低だった。

本当に、沢山の人々にお世話になった。感謝してもしきれない程、感謝している。

--------------------------------------------------------------(手記おわり)

……この手記を書いた平野さんは、今、ある大手広告代理店で、バリバリの営業マンとして活躍している。そして、冒頭に触れた10周年の追悼式典に、企画段階から制作スタッフのリーダーの1人として参画していたのだ。神戸市がこの追悼式の構想を明らかにした時から、彼はかなり“燃えて”動いたようだ。ご本人の言葉をご紹介する。

平野:
「絶対、この仕事は取ります」と。僕の下で協力してくれるスタッフの人間にも、「これは絶対に取る。そして、完全に仕上げる」と。神戸市さんも、分かって下さって。その時が一番、思い入れが激しかったですから。でも、会社として請けてからは、そこからは《仕事》として取り組みました。
本来、僕は(営業職で)必要なお金を集める役なので、中身には入らないんです。現場にはちょっとだけ来て、お金の話だけするっていうのが普段の僕の役目なんですけど、今回は中身にまで入りました。

たしかに、(広告代理店が大きなイベントを取り仕切るのはよくある話だが)営業マンというポジションで制作チーフまで務めるというのは、珍しい。「自分が追悼式を作り上げるんだ」という、当事者としての思い入れがあったのだろう。演出など具体的な制作の面では、専任のディレクターを信頼し、出過ぎないようにわきまえていたが、裏方用の進行台本を見ると、制作スタッフ・リストの一番上に「平野卓雄」の名前。やはり彼は、中心的な存在だったのだ。

―――全力投球の準備を終えて、今週月曜、10回目の1月17日。神戸市ポートアイランドで開かれた追悼式には、約6200人の市民や来賓が参列した。政府などのおエラ方の挨拶に続いて、震災で最愛の妹を亡くされた男性が、遺族代表としてスピーチした。

スピーチ(抜粋): 私は、この10年間の復興生活の中で、忘れてしまいたい事、忘れかけていた事、そして決して忘れてはいけない事を今一度思い起こし、見つめ直し、精一杯、力強く生きていこうと思います。それが、亡くなられた方々への、最高の供養だと信じております…。

式典のクライマックスは、神戸市内の小学校の先生が、震災2週間後に作詞作曲した「しあわせ運べるように」。追悼式では毎年のように歌われている歌だが、特に今回は、市内各校から集まった小学生1100人による、感動的な大合唱となった。

「しあわせ 運べるように」

地震にも負けない 強い心を持って
亡くなった方々の分も 毎日を大切に生きていこう
傷ついた神戸を 元の姿に戻そう
支えあう心と 明日への希望を胸に

ひびき渡れ 僕たちの歌
生まれ変わる 神戸の街に
届けたい 私たちの歌
しあわせ 運べるように

式典の間、裏方として“仕事師”の厳しい顔つきに終始していた平野さんだが、そんな彼が思わず感傷的になってしまう瞬間があった。それは、司会者による式典開会宣言の前、中国の古筝(日本の琴のルーツとも言われる民族楽器)奏者の伍芳さんが、生演奏をした時のこと。上海出身で神戸在住の彼女は、震災で姉を失った。そんな彼女が弾いたのは、平野さんのお母さんが愛していた松任谷由美の、『春よ来い』だった。 閉会後、この時の事を、平野さんはこう述懐していた。

平野:
あれは、僕もびっくりしたんです。昨日のリハーサルで初めて曲目を知って。それで、「なんでこの曲なんですか」って聞いたら、伍芳の亡くなったお姉さんも、あの歌をすごく愛してたらしくて。びっくりしました。

−聴いていて、大丈夫でした?

平野:
いや、リハーサルで聴いた時は、やっぱり、ダメでしたねえ…。

「ダメでした」とは、一瞬“仕事師”から、母を失った息子に戻ってしまったという事だろう。この曲は、震災当時から復興してゆく10年間の映像を大スクリーンに流しながら、演奏された。そこで震災直後の被災現場の映像を出すかどうかに、平野さんの強い思い入れがあったという。

平野:
冒頭のビデオで、震災の映像を入れるか入れないかっていうところですごく議論になって、僕は「絶対入れるべきだ」と。僕が強く言ったのは、そこくらいですね。“明るい10年以降に”っていうのが、(神戸市側が望んだ)式典の基本的なコンセプトなんですけど、「その為には、10年前の時間に一度ネジを戻してから、やるべきや」と。プロデューサーの方も同じ思いだったので。 その辺はすごく微妙な問題で、どぎつい映像を見せるのはどうかっていう、一つの観点もあるわけですよね。でも式典には、それを実際に一度体験された方が来るわけです。そこから、式をどう展開していくかですよね。最初から“明るく楽しく”してしまう事への拒否反応の方が、僕は強いなと思ったので。

未来志向ももちろん大事だけれど、亡くなった愛する人達のことを、ちゃんと思い出して、偲んで、涙を流せる時間もほしい、という平野さんの主張は、最終的には発注者の神戸市側にも通じ、式典の始まり方を決定づけた。そんな思い入れのこもったシーンに、何の打ち合わせもなくユーミンの曲が添えられるとは、なんという偶然だろうか。

式の最後に、参列者全員の献花が1時間近く続いた。花を供えると帰っていくという形だったので、徐々に人が減っていく。最後、もう会場の一般参加者が殆どいなくなった頃に、平野さんは、どこからともなくスタスタとさりげなく出てきて、一輪の白菊を受け取り、祭壇に供え、短く合掌して、また足早に舞台裏へと戻って行った。

これだけ立派な10年目の追悼式を創り上げた息子の姿を、亡くなった「おしゃれなお母さん」は、さぞ頼もしく思ったことだろう。

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