仮設住宅にて/山古志村の新年と信念

放送日:2005/1/1

天災続きの2004年が終わり、新しい年が幕を開けた。その元旦を、新潟県・山古志村の人々と一緒に、長岡市郊外の陽光台の仮設住宅が立ち並ぶエリアで迎えた。

■昼間は見えない、仮設の辛さ
陽光台では、全員が避難生活を余儀なくされている山古志村民の、およそ半分が暮らしている。天気予報では吹雪になるということだったが、幸い風が弱まり、雪も時折雨に変わったりしながら、比較的穏やかな新年を迎えた。
とはいえ、大晦日に降った雪は、深い所では40センチ程度は積もっている。厳しい寒さを、プレハブの仮設住宅でしのいで行けるのだろうか。
大晦日、一人暮らしのおじいさんの大工仕事をちょっぴり手伝いながらお話を聞いたところ、「とにかく仮設住宅はスキマ風が寒い」という。「報道の人は、一度泊まって体験してほしい。昼間訪ねて来られても、この辛さはわからない」と言われた。「谷間の村にいた時より、平らに造成されて吹きっさらしになっている今の場所の方が、寒く感じる」ともおっしゃっていた。
“大工仕事”というのも寒さ対策の一環で、仮設住宅の出入り口の外に、角材と波板で囲いを付け足す作業をしていたのだ。こうして囲いをつけないと、玄関の上がり口に置いた靴の中に、あっという間に雪が降り込んでしまう。(実際、私もこの前の日に、長靴が雪にやられてしまった。)これもまた、阪神大震災の仮設住宅にはなかった、雪国の被災地特有の苦労だ。


■熟練者でも怖い、今冬の雪下ろし
厳しい冬越えの作業の1つとして「雪下ろし」があるのだが、そのための作業隊が各地区ごとの有志で結成され、一昨日・昨日(12月30・31日)と、山古志村に初出動して作業にあたった。
昨晩、その参加者の一人に話を聞くことができたのだが、ただでさえ危険を伴う雪下ろしの作業が、地震で家そのものが傷んでいるので、より危なくなっているという。実際、地震で傾きかけていた小屋が1棟、数日前に雪の重みで潰れたという例が出てきている。作業をする予定だったが、その家を目の当たりにして「これは危険すぎる」と判断され、中止されたという例も既に2軒出た。しかし、多少傾いている程度なら、軋みの音に耳をそばだてながら、注意深く屋根に上っているという。それも、決して1人では作業せず、チームで動くルールが厳守されている。
作業に慣れた地元の人にとっても、この作業は「怖い」という。例年なら、勝手が知れた自宅の雪下ろしだけやれば良いのだが、今回はチームを組み、初めて見る他家の屋根に上らなければならないため、どこに滑り止めのストッパーがついているのか、どこが危ないポイントなのかがわからない。また、普通は屋根の下の方から上に向かって雪を除けていくのだが、地震で瓦が落ちてしまってビニールシートで屋根を覆っている家の場合、上の方から除けていかないと、雪がビニールで滑り落ちて来て非常に危ない。しかし、屋根がビニールシートで覆われているかどうかは、雪を除けてみなければ分からない事も多いのだ。
実際、一昨日(12月30日)、49歳の村会議員の方がこの作業中に屋根から落ちてしまい、重傷ではないが怪我をしてしまった。慎重に作業しなくてはいけないので時間がかかり、全家屋を回り切れず、また明後日(1月3日)ごろには次の出動となりそうだ。
参加者に聞いた「人が暮らしていないので、家屋の“体温”が下がっていて、雪が重い」という話には、現場で作業する人の実感がこもっていた。
ただ、この大変な作業にも、《被災者の失業対策》になるというプラス面がある。村に雇われる形で現地に入るため、日当1万1千円が給付されるのだ。復興関連作業自体が被災者の収入源にもなるという、一つの理想形である。(もちろんこれだけでは、暮らしを支える程の金額にはならないが。)


■代々の村医者が説く「春遠からじ」
寒さが益々厳しくなる中、被災者の健康をケアするため、今週月曜(12月27日)、仮設エリアの一角に診療所がオープンした。年内の4日間だけで、270人が来診した(その中には、年明けに服用する分の常用薬を正月休み前に取りに来たという人もいたので、実際それだけの人が現に体調を崩しているというわけではないが)。
診療所の佐藤良司医師に話を聞いたところ、避難所にいた2ヶ月間に比べれば、来診者の数は落ち着いてきたという。学校の体育館などの避難所では、一人が風邪をひくとすぐに周囲にうつってしまうため、来診者が絶えなかったのだ。仮設住宅に移ったことで、そういった《体の病》が蔓延する状態は落ち着くが、被災者がそれぞれ個別にこれから先のことをじっくりと案じてしまう時間ができるため、これからは《心の病》が心配だ、と佐藤医師は言う。阪神大震災の時とは違い、コミュニティごとに大体固まって仮設住宅に入居できてはいるのだが、やはりそれでも、一人暮らしのお年よりなどは、“壁に囲まれる”ことに対する注意が必要だ。
佐藤医師は、「言葉をかけあっていく事が大切」と強調する。実際、来診者には「厳しい冬の後には、きっと春が来るんだよ」と声をかけているという。これは、雪国である山古志村の全員に沁み付いている感覚であり、心に響く言葉なのだ。元々、佐藤医師は山古志村で代々開業医を続けていて、今は村民達と同じ被災者の立場にある。他の土地からやってきたドクターより、励ましの言葉も村民達に届きやすいのだと感じた。


■ドラム缶で鳴らす《無数の希望》
私は今回は12月30日から現地に入っていたのだが、このエリアでは、ボランティアの方が各戸を回って年越し蕎麦を配ったり、一角にある集会所でミニ・コンサートが開かれたりという年越し風景だった。
そんな中でも、心を洗われたのは、京都・西本願寺の有志の皆さんが運んで来たドラム缶製の《除夜の鐘》。阪神大震災後の最初の大晦日、それまで炊き出しや風呂桶代わりに使われたドラム缶を、人々が感謝の気持ちを込めて、除夜の鐘の代わりに叩いた。(この話は、当時ほとんど報道されていなかった。実際に神戸でこの《鐘》が叩かれた時、報道陣はその場に全くいなかったという。10年経った今でも、知られていないエピソードは沢山あるのだ。)当時神戸のお寺でボランティアをしていて、現在は西本願寺の職員をしている方が中心となって、それを再現しようと、今回ドラム缶を持ち込んで来たのだ。
阪神の時は、ドラム缶の底を全部くり抜いてあり、音が綺麗に反響しなかったので、今回は底面のくり抜きを小さくする改良型にした。また、全体を白く塗って、その上に村民やボランティアの皆で寄せ書きをした。そこには、「あまり考えこまずにがんばろう」「生きる望みが出てきた、ありがとう」といった、それぞれの思いが書き込まれていた。
除夜の鐘は普通、煩悩の数と同じ108回叩くものだが、その場にいる誰も、鐘を叩く回数をかぞえてはいなかった。西本願寺の方は、「これは煩悩を消すためにやってる事じゃない。《無数の希望》を打てばいいから、数はかぞえなくていいんです」とおっしゃっていた。
叩く時刻も、午前0時またぎではなく、午後5時56分、つまりあの地震が発生した時刻から叩き始めた。

こうして年が明け、三箇日が明けるとすぐ、長島忠美村長が村民と今後の事を話し合うための座談会が始まる。3つの選択肢―――村に元通り帰るのか、集団移転するのか、村民がそれぞれに新しい住まいをみつけるのか―――のシビアな選択が、もうすぐに迫られるのだ。

今日(1月1日)は、中越地震が起きてから2ヶ月と9日目。阪神大震災の時は、2ヶ月と3日目に地下鉄サリン事件が起きて一連のオウム報道ラッシュが始まったため、我々全国メディアの報道関係者の多くは、それからぷっつりと、被災地に行かなくなってしまった。その大きな反省を踏まえて、今回こそはきちんと、節目節目で、被災地の様子を伝え続けていきたい。


■追伸―――考え方変えようよ、NHKさん!
余談だが、大晦日のNHKの『行く年来る年』の中継も、この仮設住宅から行なわれた。私はこの中継を側で見ていて、唖然とせざるを得なかった。集会所に臨時に設置された神棚に、村の人たちが“二年参り”(初詣)に来るのだが、NHKのスタッフ陣がその人たちを放送開始の時間まで参拝させずに引きとめ、「こうやってゆっくり歩いていって、合図をしたらこうしてください」というように全て段取りを決めて、村の人たちをまるで映画のエキストラのように扱っていたのだ。スタッフからは「本番10分前でーす!」というようなハキハキした声が飛ぶ(初詣に“本番”も何もないだろ!)。かくて、村の人たちは実際に放送が始まると合図に従って整然と動き、放送終了と共に、潮が引くように帰って行ってしまった。
この間、NHKのスタッフ達は、実に屈託なくキビキビと仕事をしていた。放送時間中、画面に映る範囲から他の報道関係者を退かす時も、「すみません」と丁重な態度で、少しも傲慢な所の無い、いたって善良な人達だった。つまり彼らは、“テレビはこうやって作るもの”と頭から信じ込み、何の疑問も感じていないのだ。フィクションなら、それで良い。しかし、これだけ大勢の一般人の行動を指図して、それを《現実》として全国の視聴者に見せてしまう発想には、恐れ入る。(民放だって、取材相手の動きに多少の注文を付ける事はあるが、これはいくら何でも程度が過ぎる。) こういう“理想のシーンを作る”ために民放より多くのスタッフを投入し、その余計な人件費を我々の受信料で賄っているのかと思うと、釈然としない。NHKに批判が集まった年の最後に、なんとも悲しいものを見てしまった。メディア・リテラシーのお勉強にもなったけど。

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