クリヤマコトと掘立て小屋のクリスマス

放送日:2004/12/25

本コーナーの前身である『ビックアップルリポート』以来5回目の年末だが、初めて放送日がクリスマスの朝に当たったので、ちょっとお洒落なゲストを―――。
ジャズ・ピアニストの、クリヤマコトさんとお話する。

今年出したアルバム『Latin Touch』に収録された「The Voyager」という曲は、イラク戦争の直前に、クリヤさんが作曲したもの。なんとか開戦が回避できるように、という願いが込められていたという。
今年このコーナーでは、52回の中で12回もイラク問題をテーマに採り上げた。だから、その《願い》には、非常にシンパシーを感じる。

クリヤ:
人間が、人類が生きていくのは、航海みたいなものだと思って。穏やかな波の日もあれば荒波の日もあって、そういう困難を乗り越えて、いつの日か水平線の彼方に、《平和な日》という目標が見出せればいいな、というほのかな思いで、「The Voyager」を書いたんです。人間の、知性とか英知は、平和のために使うべきものだと僕は思ってて。人間は平和のための知性を持っているものだと、信じたいんですね。

今年1年のクリヤさんの活動を振り返って特に眼を引くのは、まず9月19日の『東京JAZZ 2004』出演だ。

クリヤ:
『東京JAZZ 2004』では、「大編成のバンドを組んでくれ」という依頼をされまして、最高に楽しい音楽を何か出来ないかなと思って、「Super Jazzfunk Project」というユニットを組んでやってみました。フェスティバルの最後では、ハービー・ハンコックが僕と共演してくれたし、イギリスからDJのユニットも来たし、アメリカから「TOTO」というロックのグループも来て。最終的にはロックもジャズもゴスペルも何でもありの、正に僕がいつも信じている《コラボレーション》を実現できたなと。もう至福の時でしたね。

その喜びが覚めないうちに、10月、「国際音楽の日〜ユネスコ音楽祭」に招聘され、パリのユネスコ本部大ホールで、また世界的なジャズメンと共演した。
「国際音楽の日」というのは、毎年10月1日。国際音楽評議会(IMC)が制定し、世界各国でコンサートが開かれる。日本でも「音楽振興法」に基づき、今年は、広島で文化庁主催の記念フェスティバルが開催された。この国際的活動の中核が、毎年パリのユネスコ本部で行われる記念音楽祭なのだ。例年はクラシック音楽が中心だが、今年はジャズが取り上げられて話題になった。

クリヤ:
ユネスコという組織の目的が「世界平和」というところにありますから、見に来る人も演奏する人も、世界中から集まって来て。僕はいつも、音楽の社会的な意義というのかな、「平和な社会にするために音楽を使えればな」と常に思ってたんですけど、正にそれが一晩で実現できたというか。音楽の社会的意義を、演奏していてリアルタイムに感じるコンサートだったので、すごく有意義でしたね。

ステージに立つ人の年齢も幅広くて。若い人だと23歳くらい。高齢の人だと、83歳のビリー・テイラーというアメリカを代表するピアニスト(この人は勲章ももらった人なんですけれど)が来ていました。その23歳のニューオーリンズから来たトランペット奏者にとっては、これがヨーロッパでのデビュー・コンサートだと。ところが、その同じコンサートが、ビリー・テイラーにとっては引退の日だったんです。

デビューする人あり、やめる人あり…。ジャズというのは、アメリカを代表する音楽なんですけれど、日本の歌舞伎なんかと一緒で、《伝承していくもの》なんですよね。おじいさんの時代から、「こういう型があるんだ」「これは美しいものだから引き継いでいけよ」みたいなものがある。これはステージの上だけじゃなくて、楽屋のバカ話なんかも全て含めて、伝承していくものなんですよ。それを目の当たりに感じて、僕としてはすごく嬉しかったです。

その錚々たるメンバーの中で、アジアからはただ1人、クリヤマコトが招かれたのだ。 最も眼を見張るのは、そんなクリヤさんが、専門的な音楽教育を受けていないという事だ。日本で普通高校を卒業した後アメリカへ留学するのだが、行った先はウエストヴァージニア州立大学の、言語学部。

−なぜ、そこを留学先に選んだんですか?

クリヤ:
学費が安かったので(笑)。ウエストヴァージニアという片田舎なんですけど、ここはアパラチア山脈がある、アメリカ東部の山岳地帯で、かなり貧しい州でもあるんですね。ケンタッキーにかけて炭鉱がたくさんあって、労働力のほとんどは炭鉱夫だったりして。黒人の人たちはそういう炭鉱の中で働いて、不当な扱いを受けたりしてるんです。例えば、同じ資格を持っていても白人の人が先に雇われたり、いわゆるリストラをされる時には、黒人の人から先に辞めさせられたり。なぜか僕の周りには、そういう社会的に不当な扱いを受けている人たちがたくさんいました。彼らに「ヒーローは誰だ」って訊くと、まず「マーティン・ルーサー・キング」が出てくるわけですね。実際、彼らの家に行くと、キング牧師の絵が貼ってある。

僕はというと、貧しい大学生活を送ってましたね。アメリカ人の学生は、休暇になると遊びに行っちゃうので、学校がもぬけのカラになるんですよ。総合大学で、250くらい学部がある大きな学校だったんですけど、その中に芸術学部があって。休み中は、使われてないピアノが100台くらいあったので、そこで練習三昧(笑)。

−言語学部なのに芸術学部に行って、練習してたわけですね(笑)。

クリヤ:
そうそう(笑)。で、そこでずっと練習をしていたら、貧しさが人と人とを結びつけたというか。知らない間に、僕は黒人の、がんばって労働をしている人たちと、バンドをやるようになってたんです。 彼らは常に、職場で不当な解雇をされたりしている境遇なんですが、それでもやはり、音楽だけは自分達の中から剥奪されるものではないと。音楽を最後の砦にして、がんばってるんですよ。

音楽と共に泣き、音楽と共に笑い、という、そういう人生を送っているのを、僕は18歳の時に目の当たりに見せてもらいました。彼らは、僕がただでさえ生活に困ってるのに、仕送りが途絶えたりして更に困ったりした時、国から彼ら生活困窮者に支給されるフードチケットを、分けてくれたりするんです。 そういう体験が原点だから、《音楽を演奏する動機》という出発点のところが、多分僕は普通の日本人の人とは違ったんじゃないかな。

−音楽大学で学ぶのはジャズの《理論》かもしれないですが、そこでクリヤさんはジャズの《魂》を学んだと。

クリヤ:
そうです。彼らは、職がなくて家にいたので、時間だけはたくさんあったんですよ。そうすると、お金が払えないので、電気とか水道とかのライフラインを、だんだん止められそうになるんです。でも時間はいくらでもあるので、説得してなんとか許してもらったりして。その説得する言葉も、だんだん歌になっていくんですね。自分が高揚して、「俺はこんなに生活に困っていて、こんなに食ってないんだから、なんとかしてくれよ」という表現が、歌になる。ブラック・チャーチ(黒人教会)の神父の説教と一緒でね。

−例えば、水道を止めに来た水道局の人を、歌って説得したり?

クリヤ:
そうそう。向こうもなんか納得しちゃって、それでまた1ヶ月もつんですよ(笑)。 一緒のバンドでドラムをやってた人の親類は、KKKに殺されたんですけどね。そういう境遇から生まれる音楽は、娯楽じゃないんですよ。学問でもなくて。《生活必需品》なんですよね。そういう感覚っていうんですか、音楽をやるための動機っていうのに、僕はすごく心を打たれて。そういう仲間達と僕は最初、音楽を始めたんです。

−そういう黒人社会の中にあって、クリスマスの思い出っていうのは何かありますか?

クリヤ:
クリスマスは大体、黒人ばっかりのパーティー。いわゆるハーレムというか、そういう土地なので、白人とか日本人が道端に倒れてても、そこをまたいで行くくらいの、かなり治安が悪いところなんです。でもそこに僕が入っていく時は友達がガードしてくれて。

ライブハウスに入っていくと、クリスマス・ライブをやっていて、バニーガール姿のお姉さんがお酒を持ってきてくれたりするんです。で、黒人のサンタがいるんですよね。ちゃんと赤い服着て、ちょっとしたプレゼントを配ってくれたり。それが、ほんとにド田舎の掘っ立て小屋みたいなクラブに、時間になるとどこからともなく、わらわらといろんなカップルが集まって、多分安い服だと思うんですけど、精一杯のおしゃれをして、踊って楽しむっていう。それが印象的でしたね。

掘っ立て小屋でクリスマスを祝うとは、物凄く「正しい」気がする。元々、一番初めのクリスマスは、厩で祝福されたのだから。

−そこにいた体験は、クリヤさんの中で、ずっとコアであり続けてる?

クリヤ:
そうですね。僕は、音楽を演奏する時っていうのは、いつもハジけるんですよ。発散するというか、自分を忘れる瞬間というか。それが、アメリカにいた時に黒人の仲間から教えてもらったスピリットだと思うんです。解放の瞬間ですね。

−この年末にハジけるご予定は?

クリヤ:
30、31日に、横浜の「モーションブルー横浜」というところで、『東京JAZZ2004』にも出演しました僕のスペシャル・ユニット、「Super Jazzfunk Project」が、カウントダウン・ライブをやるんですよ。これは、ジャズ系もいれば、ゴスペル系、フュージョン系、いろんな人間が入っているユニットなんですけれど、更にそこに、タップダンサーを入れたり。更にコラボレーションを拡げて、超盛り上がりで、楽しく新年を迎えたいと思います。朝方までやるつもりでいますので。

−クリヤさんは"ジャズ・ピアニスト"と言っても、作曲・編曲家でもあり、サウンド・プロデューサーでもあり…と、活動の幅が広く、来年は何をされるのか、予想もつきません。

クリヤ:
元々はピアニスト一本で活動をしていたんですけれどね。最近では、ポップスのアーティストである平井堅さんに楽曲を書いたり、編曲を行なったり。クラシックのプレーヤー、新日本フィルハーモニー交響楽団とか、読売日本交響楽団と共演したり。いわゆるクラブのDJと「RHYTHM OF ELEMENTS」というコラボレーションのユニットをやって、都内のクラブに出たり、レコードを1枚出したり、来年はアメリカでもレコードを出す予定なんですけど。あとは映画のサウンドトラックをやったり。あと和楽器ですね、三味線奏者の上妻宏光君や、はなわちえさんのプロデュースをしたり、和太鼓の林英哲さんや「炎太鼓」さん、尺八の藤原道山さんや土井啓輔とコラボをやったり。

基本的には、何も考えずにコラボレーションしてるんですけどね。僕は出身がジャズで、アメリカの生活も長かったんですが、元々ジャズだって、アフリカ人がアメリカに連れて来られて西洋の音楽をやってきたっていうところで、既にコラボが始まっちゃってるわけですよね。なので、そういうミクスチャーがあるところは全て音楽だと僕は思ってて。だから何でもオッケーです。

以前このコーナーでご紹介した子ども向け英語学習コンテンツ・Cat Chatのテーマ曲も、実はクリヤさんが書いたものだ。本当に活動の幅が広い。

−来年の抱負は?

クリヤ:
最近、僕が今までやってきた事が少しずつ身になっているんです。僕が手がけた映画のサウンドトラック、『NITABOH』という三味線のパイオニアの映画(今もう封切られてます)なんですが、来年それがDVDとCDになっていくのが1つ。あとは、2006年リリース目標にしている、僕の次の作品。これは日本の唱歌を、日本の、ブルースというのじゃないですけど、《歌の心》を大事にした『ふるさと-Japan-』というのを、今作っているところですね。

あとは、たまには自分の楽曲でハジけたいなあと。さっきお話があった「The Voyager」も含めて、オリジナルの楽曲のツアーを2月にやります。東京を始め、滋賀、浜松、名古屋、大阪と、「Latin Touch」ツアーというのをやります。

かくて、黒人社会で魂を吹き込まれたクリヤ・サウンドは、平和な社会の実現を理念でなく全身で希求しながら、来年も《航海》を続けてゆく。

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