入獄から3年、世は選挙…山本譲司氏語る(前編)

放送日:2004/6/26

「獄窓記」参議院議員選挙が公示され、贈収賄事件の刑事被告人や秘書給与詐欺で執行猶予中の人たちも出馬して、世間から注目されている。しかしその一方、当時の一連の秘書給与詐欺事件で、政界から姿を消し、それっきり全く名前を聞かない元・衆議院議員もいる。今朝はその人、山本譲司さんに、あえてこのタイミングでお話を伺う。


―秘書給与の詐欺で逮捕され、1年6ヶ月の実刑判決で収監されたが、社会復帰してどれくらい経ちますか?

山本:
ちょうど、1年10ヶ月です。おととしの夏に出所しました。今は、都内の知的障害者更正施設の支援スタッフとして、週に2〜3日通っています。それから、障害者福祉団体の皆さんや弁護士会、法務省関係機関などで、週に1〜2日講演活動をしています。あとは、若干の執筆活動ですね。

―ちょうど3年前の今ごろ、6月26日に府中刑務所で、獄中生活最初の朝を迎えたわけですよね。“先生”と言われる生活から一転、“受刑者”として迎えた朝は、どんな気持ちでした?

山本:
6月25日に収監され、翌日の朝を迎えるまでの18時間くらい、全く、一睡もできなかったです。まず、パッと《酔いが覚めた》感じ。控訴を取り下げて、収監されたからといって、自分の事件を総括できていたのか、本当に真剣に反省していたかっていうと、実はそうではなかったんじゃないかと、入獄してみて、いろいろ考えましたね。

刑務所の中っていうのは、非常に考える時間に恵まれていますから、「自分の名誉」だとか、「これから将来どういう仕事をしようか」だとか、そういうあくせくした思考からパッと解放されるんです。結構、哲学的になって、形而上学的な思考を使うことができるんですよね。人生について考えました。

22歳から37歳までの15年もの間、ずーっと感覚が麻痺していたというか、酔っ払っていたというか、そんな15年間を総括する中で、そういう思いがしてきたんですね。で、パッと酔いが覚めた、と。

永田町って所は、野党であっても、立法機関というのは“権力”ですから、その《権力に酔う》ってところはあって、私は酔っ払ってしまったんですよ。他の議員の皆さんがそうかどうかはわかりませんが。

―国会議員だった時の山本さんと今の山本さんは、全く雰囲気が違いますよね。国会議員特有の、よく言えば“エネルギッシュ”、悪く言えば“あぶらギッシュ”という感じが全くしない。

山本:
でもね、あれは演技しているところもあるんですよね。自分でマインドコントロールしてて。やっぱ、背伸びをしていたんですね。身の丈にあったことではなく、背伸びをしてあがいていたんでしょうね。その延長線上に、秘書給与の事件というのも起きたのでしょうし。3年前の事件のきっかけは、単に法律に違反したという問題だけではなく、なんか、自分自身の人生に対する警告だったなぁって、そんな感じで総括しているんですね。

―“酔いは覚めた”といいつつも、今また国政選挙の喧騒が始まっているわけですよね。ウズウズしませんか?

山本:
逮捕されるまでは、私自身、嬉々として、人の選挙であろうと、中心的な役割を自分から引き受けて、あらゆる選挙に参加してたんですよね。ま、好きでしたしね。その選挙に携われないっていうのは、ホント、隔靴掻痒、なんで携われないんだというような焦りがありました。一方で、このような事をしてしまったから、このような目に遭うんだという、自分に対する腹立たしさがありましたけどね。

―手記『獄窓記』(ポプラ社)の中に、(刑務所へ向かう移送車の窓から外を見て)『絶好のロケーションにもかかわらず、そこに民主党候補のポスターがないと、思わず舌打ちをしてしまう。』なんていう記述がありましたが、そのように反射的に思ってしまうことは、3年経った今回の選挙でもありますか?

山本:
あの時の思いとは全く違いますね。3年前は、まだ選挙を「当事者」として見ていたんです。あるいは、選挙だけでなく、政治ニュースも。なんで、選挙に関われなくなったのかって。ニュースが流れると、特に、政治ニュースが流れると、つい先ほどまで一緒に仕事をしていた人間が映るわけでしょ。妻がね、テレビのチャンネルを変えちゃうんですよ。なんでかっていうと、僕の顔が歪んだりしているんですよね。その反応をみて、変えてくれていたんです。ですから、非常に辛かったです。なんか、言いたいことも一杯あったし、僕だったらこうするなとか。

でもね、3年経った今は、他に目的が出来たというのは大きいんでしょうけど、非常に客観的に見られるようになりましたね。ですから、政治ニュースは、むしろ自分が政治家の時以上に見てますね。世の中のルールをつくる立法機関に対する興味、という意味で。だから、自分が議員になろうだなんて、もう200%、300%思っていませんけど、政治に対しては非常に注視していきたいと思っています。

―具体的には何か?

山本:
私自身、これからやろうとしている福祉関係のこと、あるいは、刑務所の中の問題だったりするわけですけど、そういった改革を行っていく上で、やはり、政治というのは必要になってくると思います。立法機関の力というのは大きいと思いますから。昔、机を並べていた議員がいるから、そこで、変にコネクションを使おうというわけではなくて、今、僕がやろうとしている現状っていうのを、是非、立法府にいる人たちにいろいろ知らせて行きたいと思ってます。

―“テーマ”として、あとは何がありますか?

山本:
広い意味での福祉全体です。私の第2の目標というのはいっぱいありますけど、その中でまず取り掛かりたいこと、地に足をつけてやりたいこと、実現したいことというのが、これです。それは、獄中で経験したこと、というより、学ばせていただいたことです。

―刑務所の中の経験で、福祉の仕事というのは、ピンと来ないんですけど…

山本:
最初、府中刑務所に3週間いました。そこで、「将来どうしようかな、福祉関係かな、自分の生きる道は…」と漠然と考えていました。その後、栃木県の黒羽刑務所に移送されたわけですが、そこで私に与えられた仕事は、刑務所の中の障害者の皆さんのお世話係だったわけです。精神・肢体不自由の方もいらっしゃいましたし、目や耳の不自由な方も、痴呆の方もいらっしゃいました。そういった方々のお世話をさせていただくという役割を命じられたわけですよね。

いや、びっくりしました。黒羽刑務所は、“一般の”刑務所なので、まさか、そういった方々が多く収容されているとは思わなかったのです。関東で言いますと、八王子に医療刑務所というのがありますから、障害者の方は、皆さんそちらに収容されていると思っていましたが、黒羽のような一般の刑務所にもいたわけですよ。

―同じ服役中の者同士でありながら、お世話係をしろよ、と。それが山本さんの「懲役」仕事ということですか?

山本:
そうですね。精神病の薬をのんでいる人の中には、副作用として、お尻とか、前の方の“しまり”が緩くなっちゃう方が少なからずいるんです。四六時中排泄・失禁されるという方がいらして、そういう方のオムツを替えたりとか、大小便の後始末というのは、毎日の日課でしたね。

―つい先日まで“先生”と呼ばれていたプライドが、そういう時に邪魔になりませんでしたか?

山本:
プライドとかいう意味ではね、初めに府中刑務所に入って、そこで、自分よりひとまわり以上年下の刑務官から、「コラ、山本!」「オイ、山本!」なんて怒鳴られ、せっつかれながら、素っ裸にひん剥かれて、お尻の穴まで検査させられるわけですから、一瞬にしてプライドは剥ぎ取られましたね。

ま、プライドは別にして、やっぱり、生理的になかなか…。汚物を素手で、ですから。ビニール手袋などは、伸ばして首に巻けば、もしかして自殺の道具になるかも知れませんから、そういったものは与えられなかったわけです。雑巾も同じ理由で、ひも状にならないよう、普通の雑巾の3分の1くらいの小ささで、大便の始末をするわけです。そんな仕事でした。初めは、しかめっ面しながらやっていたかもしれないです。

いろんな事がありました。いろんな会話もしました。私が一番愕然としたのは、手が生まれつき不自由なある肢体不自由者が、満期の出所を前にして、私に真剣な顔で「山本さん、府中刑務所にいたんだって?あそこ、再犯者が行く刑務所だよね。あそこの住み心地どうでした?」って聞いてくるんです。「住み心地なんて良くないですよ、刑務所だもん」って答えたんですけど、「いや、僕、次は府中だろうな」って。要は、再犯することを自ら想定しているんですね。「刑務所なんて、自由なんか無いじゃない」って言ったら、「いや、自由は無いけど、不自由も無いよ」って。外の社会と比べて刑務所の方が、ずっといろいろ便利だったと。だからまた刑務所に戻ってきてもいいって平気で言うんです。「今まで生きてきた人生の中で、一番過ごしやすかったのが刑務所だった」って。

言ってみれば、自分達、障害者っていうのは、生まれながらにして刑罰を受けているようなもんだと。自分の場合は、生まれた瞬間“右手切断の罰”とか、そうやって生まれてきたようなもんだ。だから、それに伴う刑を受ける所というのは、一般社会でも、刑務所の中でも、どこでもいいんだ。「むしろ、刑務所の中の方が生活しやすかった」って。―――いや〜、そう言われた時はね、本当にショックでしたね。やっぱり、永田町で見てきた福祉がいかに上っ面だけだったか、そう思ってね、自分が情けなくなりましたね、議員として、“福祉”をやっていた自分が。

次回も引き続き、山本さんにお話いただく。

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