東ティモールの自衛隊PKOは今

放送日:2004/01/03

今年最初のこのコーナーは、やはり昨年終わり頃に連続して採り上げたイラク派兵問題にこだわってお伝えする。メディアがイラクに注目している今、ここではあえて目先を変えて、実際に自衛隊が海外でどんな動きをしているのか、東ティモールの自衛隊PKOに眼をツケよう。…というわけで、暮れも押し迫った27日に出発し、元旦までの“足掛け”2年(実態は“駆け足”6日)で、東ティモール現地へ行って来た。


■今、海外にいる自衛隊員

そもそも、現在、世界中にどれだけ自衛隊が出ているのか。出て行く当初はいずれも大騒ぎをされたが、最近はめっきりメディアで採り上げられなくなってしまっている。

【国際平和協力法による派遣】―――いわゆるPKO派遣

  • ゴラン高原(96年〜)
    現在の派遣規模:40人ほど
    活動の内容:国連の兵力引き離し監視団への生活品の輸送など
  • 東ティモール(02年〜)
    現在の派遣規模:405人
    活動の内容:国連平和維持軍(PKF)が作戦で使用する道路や橋の補修など

【テロ対策特別措置法による派遣】

  • インド洋(01年〜)
    現在の派遣規模:艦船3隻に乗組員およそ600人
    活動の内容:NYテロの後に始まったアフガン攻撃の後方支援

【イラク特別措置法による派遣】

  • イラク(の先遣としてまずクウェートへ)(03年〜)
    現在の派遣規模:先遣隊40名

【国際緊急援助隊法による派遣】

  • イラン(03年〜)
    現在の派遣規模:航空自衛隊31人
    活動の内容:先週金曜(12月26日)に起きた地震の救援活動

根拠となる法はバラバラだが、結構な人数が海外へ出ているわけだ。その中で、陸上部隊としては際立って人数が多い東ティモールの事例を観察してみよう。


■“国内の目”と“現場の目”の違い

国としてまだ満1歳の東ティモールでは、首都ディリの街中の至る所に国連の施設や車があり、まだまだ“国連が面倒を見ている国”だという印象を受けた。今は一生懸命、独立した新しい政府に、少しずつ少しずつパワーを移している段階だ。

そこで自衛隊は、PKF(国連平和維持軍)の使う道路や橋の修理を中心に行う工兵部隊の役割を担っている。現場に行ってハッキリ感じたのは、やはり自衛隊も当然にPKF=軍の一員として見られている、という事だ。(そう言えば、既に日本に帰国した部隊が持ち帰った大統領からの感謝状にも、現地での親善スポーツ大会のトロフィーにも、何の屈託もなく「PKFの日本部隊に」と記されている。)日本国内でよく「PKO(平和維持活動)参加かPKF(平和維持軍)参加か」という議論が起こるが、現地の人の感覚では、そんな区別はもともと眼中にないわけだ。
だから、イラクに行く自衛隊も、日本国内でどういう理屈をくっつけようと、現地でアメリカの今のやり方を面白くないと思っている人達から見れば、“占領軍の一員”としか見えないだろう。それがティモールへ行っての実感だ。

ディリの国連の施設は、自爆テロのトラック突入等に備えて、1個1トンという巨大な砂袋の防壁で覆われている。その砂袋を積むのも自衛隊の仕事だ。情勢は比較的安定しているとはいっても、2002年10月に数百人が集まるディスコでテロがあったバリ島に近い(飛行機で2時間弱)という事もあり、ピリピリしているところはある。
自衛隊も安全確保のため、作業現場に出る時は全員が小銃を持参し、作業中は要所要所に見張りの隊員が、小銃の引き金のすぐ脇に指を置いた姿勢で立っている。もし何かあれば即応するわけだが、今まで実際に発砲した事は一度もないそうだ。群長(派遣自衛隊のトップ)に話を聞くと、カンボジア以来、PKOも情報の集め方や連絡の取り方などのノウハウを蓄積してきて、安全確保にはかなり自信があるとのこと。しかし、それがイラクにも役立つのかと問うと、群長は、それは「違う」とはっきり否定した。「あくまで、国連の枠内でのPKO活動の中で蓄積したノウハウであって、イラクはその枠外。新しいノウハウを一から積み上げる事になる」という。現場の正直な感覚だ。

たしかに、ディリで見かけるPKO活動は、全ての車や備品、隊員のヘルメットにも「UN」という国連のマークが大きく記され、日本の自衛隊であっても、「国連が仕事をしている」としか見えない。よく近づいてみると、肩に小さく日の丸が入っている、というくらいだった。イラクでは、この“国連の傘”が使えない。


■「応急性」と「期限付き活動」の限界

自衛隊の作業そのものは、“さすが日本、緻密にやるな”―――と思いきや、作業の後、例えば路肩の崩落を一度直した後がまた崩れていたり、という場所があったりする。群長によると、「我々の使命は、PKFの活動する期間内だけ、その補給路を保つこと。本格的に直すのは地元の人の仕事であって、我々はあくまで応急措置が任務」だという。だが現実に、地元の人々には今、道路を恒久的に直すだけの余力はない。
この弱点について、自衛隊の現場の人達を「けしからん」と批判するのは、筋違いであろう。役割が違うのに、コンビニに行って「なぜ家具を売っていないんだ」と文句を言うようなものである。しかし、どこにも家具屋がない場合は、どうしたらよいのか。コンビニなりにできる協力はないのか。

そうした問題意識から、最近では、自衛隊が自分たちの持ってきたブルドーザー等の機械の操縦訓練を、地元の人を対象に行ったりしている。自衛隊の宿営地の中に、東ティモール政府の公共事業省の役人を呼んできて、ローテーションで運転や整備のやり方を指導しているのだ。そこで学んだ技術を、それぞれの役人が自分たちの持ち場で広める。自衛隊宿営地の中には、≪大人に技術を、子供に夢を≫というスローガンが掲げられていた。“大人に技術”の方は活動時間内に業務の一環としてやっていて、“子供に夢”の方は、非番の日に近所の孤児院などで交流を持ったりしている。(これに対して、イラクの場合は今のところ“テロに屈するな”といった対決姿勢のスローガンしか聞こえてこない。この差は、非常に大きい。)
しかし、こうした腰を据えた活動に取組むには、残された時間はあまりにも少ない。というのは、今年5月20日が、東ティモールで活動する多くの国際機関の活動期限だからだ。自衛隊もそれにあわせて活動停止し、撤収をはじめる。さすがに「“PKO部隊が去ってしまったら元の木阿弥”ではまずいだろう」と、上記のような活動も始まったわけだが、やはり撤退後の状況は懸念される。 (※注)

今の東ティモールはいわば、“国際機関援助景気”のようなもの(といっても、決して好況なわけではないのだが)。少なくとも首都のディリの経済活動などは、国際機関で働く人々の財布に相当依存している現状だ。今も既に国際機関が減り始めている影響は出ていて、私が滞在している間にも、実際にコーディネーターが「去年はここに立派なレストランがあったんだけどな…」という場面が一度ならずあった。ディリ市内に1つだけ、「祗園」という和食レストランがあるのだが、店主に話を聞くと「自衛隊が来るのでジャカルタから来たが、自衛隊が帰るなら自分たちも店をたたむ」という事だ。なんとその人は「その後はイラクで店を開くかもしれない」と、半分本気で考えていた。


東ティモールの現状では、自衛隊の活動の“限界性”の象徴となりつつある「撤退期限」は、イラク(一応、今年12月14日までが派遣期限)においても復興支援活動のネックとなるのか。それともイラクでは、戦乱にエンドレスに巻き込まれる事を防ぐ歯止めとなるのか。あるいは、イラクの場合は撤退期限を日本が自分で決めるので、状況の混迷化によっては結局ズルズル延長を繰り返す事態となり、「国連が出て行くから」という“引き際の大義名分”がある東ティモールとの事情の違いが際立つ展開となるのか。
少なくとも、以前列挙した小泉首相会見の説明不足点の26番目にもあった「PKOでは支持されているから今回も」という論理は、かなり強引に、≪違うもの≫を≪同じもの≫のように並べて見せていると言えよう。



※注:これとは対照的なのが、東ティモール現地で活動している日本のNGOのスタンスだ。即効性はないけれど、現地の人々が本当に自立するまで、5年・10年というスパンで活動していこうとしている。(これについては、回を改めてまた詳しくご報告する。)

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