紺野美沙子、ガーナで『ナナラコ』になる

放送日:2003/09/27

明後日(9月29日)から、TICAD3(ティカッド・スリー)という会議が開催される。パラパラと報道されてはいるが、あまり耳慣れない名前だ。TICADとは、Tokyo International Conference on African Development=「アフリカ開発会議」のこと。アフリカが今後どのように開発・発展していくかを、アフリカ各国の要人が毎回東京に集まって話し合う、常設の会議なのだ。今回は、この会議にちなんで、女優の紺野美沙子さんにお話をうかがう。

紺野さんは、この会議に先立って、国連開発計画(UNDP)の親善大使として、先月アフリカのガーナに行って来た。

紺野:
5年前に、ニューヨークの国連本部から指名を受けまして、それ以来、親善大使を務めております。結構いるんですよ、歌手の加藤登紀子さんとか、マラソンの有森裕子さんとか。

−TICADに先立って、ガーナでは何を見てきたんですか?

紺野:
今アフリカが抱えている問題はいろいろありますよね。西アフリカのガーナは比較的、治安も安定していますし、“アフリカの優等生”と呼ばれている国なので、それほどまでに深刻ではないんですけれども、それでもエイズの問題とか貧困の問題を抱えています。

−数あるアフリカの国の中で、ガーナへ行った理由は?

紺野:
アフリカはフランス語圏が多いんですね。そんな中でガーナは英語が通じるから、って言ってもろくに喋れないんですけどね、私(笑)。あとは、UNDPの現地事務所に、非常に現地に詳しい日本人の方がいらしたということがポイントです。元々ガーナは、野口英世博士が黄熱の研究をした場所ですから、日本と関係が深いですよね。現地で、野口英世博士が最後まで研究を重ねた研究室なども、見学に行きました。

とにかくアフリカという地に足を踏み入れるのが初めてだったので…。アフリカというと、文化的にも地理的にも日本から遠いですし、不安と期待が入り混じってドキドキして行きました。でも行ってみたら、ちょっと皆さん日焼けしてますけど、日本人と変わらないんですね。あったかいし優しいし、陽気ですし。顔をあわせた時に、「なんかこの人、信頼できるなあ」って、素朴な優しさが滲み出ている人が多くって、とってもガーナっていう国が好きになりましたね。

写真 スタジオには、ガーナで撮った写真を何枚か持ってきていただいた。

−この、子供達に囲まれている写真はどこですか?

紺野:
これは、マンニャクロボ地区という、ガーナの中では比較的エイズの感染率が高い地域の中の学校です。公立学校の子供達は、皆オレンジ色のブラウスに、茶色のスカートやズボンを着ているんですね。どこに行っても、この制服を着た子供達が一杯一杯います。

この地域は、首都のアクラから車で2時間くらい、北の方へ行ったところなんですけれども、その近くに、ボルタ湖という、非常に大きな人造のダム湖があるんです。そのダムが出来たおかげで、水の底に沈んでしまった土地で農作業をしていた人達に仕事がなくなってしまって、それで皆海岸の方、例えば象牙海岸の方へ出稼ぎに行かざるを得なくなったんです。そこで売春をして、エイズに感染してまたその地区に戻ってきて、その地区でエイズが広がってしまう。その結果、エイズ孤児がものすごく増えたんです。

ダム湖から始まった不幸の連鎖が、エイズ患者拡大という結果につながっているわけだ。

紺野:
それで、その地域の種族の長が、「なんとかしなくてはいけない」「私の目が黒いうちは、この子供達は皆、私の宝だ」と、対策を出したんです。その地域にはクイーン・マザーズっていう、ある程度恵まれた家庭、いわゆる“良家”を出たお母さん方の、婦人会みたいな集まりがあります。その会のお母さん達に、ひとり6人ずつ、エイズ孤児たちを引き取らせたんです。お母さん達には、わが子も10人位いるんですよ。それでも、エイズ孤児たちを自分の家で、自分たちの子供と同じように、もしくはそれ以上に大切に育てているんです。例えば食事の時は、孤児の子供達から先に与えるとか、同じように学校に行かせて、まったく同じようにしなくちゃいけないんですって。

「差別をやめましょう」というスローガンではなく、長が出した号令を元に、具体的な実践をしているわけだ。

紺野:
クイーン・マザーズは、その地域だけで371人います。こういった様々な形の取り組みがどんどん広がっていけば、エイズ撲滅って、遠い道ですけど、不可能なことではないなって思いますね。

こういった地道な取り組みが、大きな問題解決の初めの一歩となる。

−他にはどんな場所を訪ねたんですか?

紺野:
ガーナといえばやっぱり、奴隷海岸。実際に奴隷の取引が行われて、世界遺産にもなっているケープコースト城というところに行ったんです。白い立派な建物なんですが、その城の上部は、奴隷の仲買人たちの住まいになっていて、その地下に、“輸出”する奴隷達を押し込めておいた部屋がありました。12畳くらいのところに、250人ぐらいの奴隷達がぎゅうぎゅうに押し込まれて、それこそ地下壕みたいな感じになっているんですね。窓も一つしかなくて、そこから常に見張りの人が見ていて、例えば奴隷達がちょっと脱出を企てたら、後でその人だけ呼ばれて、殺されちゃったとか…。あと、規律を乱した者がお仕置きされる牢屋みたいな場所があったんですけれども、そこはドアを閉めると真っ暗で、今でも囚人がもがいて壁を引っかいた爪痕が残ってるんですね。それを見た瞬間、当時の事がもう現実のものとして伝わってきて、怖かった…。他には“ノーリターン・ドア”っていう、そこを出たらもう、帰れない、戻ってこられない、海岸に通じる一枚のドアがあるんです。そこを案内してくれたケープコースト大学の大学生は、「当時奴隷船は、“浮かぶ棺おけ”と呼ばれていました」って教えてくれました。波の音さえも、奴隷達の嘆きの声に聞こえてくるような感じがしましたね。

−現地の人達は今もその場所で、かつて奴隷がアメリカ大陸に連れて行かれたという生々しい現実を学んでいるわけでしょうか。

紺野:
まあガーナも、これからは観光に力を入れていこうという事で、その場所も世界遺産に指定されていますし、立派なリゾートホテルもできています。エルミナという場所のそのホテルに入れば、そこはもう、とても近代的な世界なんですね。でもそこを一歩出ると、あたりはとても貧しい漁村で、1日1ドル以下で暮らしているような人達が一杯いる、そういう光と影を見たっていう感じですね。

−奴隷とエイズ。アフリカが≪かつて≫抱えた問題と≪今≫の問題を、一度に凝縮して見てきてしまった感じですね。

紺野:
そうですね。滞在したのは4日間だったんですけれど、帰る時に、ガーナからオランダのアムステルダムへ出たんですね。でもアムステルダムでは、もう抜け殻のようになってしまって、1日何もできなかったです…。

−親善大使として、そうして目で見て、耳で聞いてきた事を、どうやったら“のほほん”とした今の日本で、皆に感じてもらえると思いますか?
難しさを感じません?

紺野:
そうですね。私は小学校2年生の息子がいるんですけれども、本当にありとあらゆる情報に囲まれた、怠惰な生活を送っているんですね。身内でも御しきれないのに、日本国民全体に働きかけるとなると、かなり難しいな、というのが正直なところですね。ただ、いっぺんには理解されなくても、細く長く地道に、伝えていけたらなと思っています。

−今回ガーナから帰ってきて、次にやってみたい事はありますか?

紺野:
今回、マンニャクロボ地区のクイーン・マザーズの皆さんから、名誉ある名前をいただいたんです。『ナナ・ラコ』っていう名前なんですけれど、「これであなたもクイーン・マザーズの一員だから、エイズ孤児のために力を尽くしてくださいね」って、クイーン・マザーズのトップの方に言われてしまって。私は自分の子供1人だけでもきゅうきゅう言ってるのに、6人の子供を引き取るのはちょっと無理ですから(苦笑)、他にどういう形でお手伝いできるかなって、考えているんです。

−“宿題”を抱えて帰国されたわけですね。

紺野:
そうですね、本当に短い間でしたけれども、今のアフリカの状況っていうのを垣間見て、今実際に困っている人がいる、苦しんでいる人がいる、どこの国の人が助けてもいいじゃないかって。本当にそう思いました。

だって、おんなじなんですもの。子供たちは、たまたまアフリカに生まれただけで、周りが紛争していたり、貧しかったりして。子供たちには何の罪もないですよね。たまたま日本に生まれたから、テレビゲーム漬けになっていたりとか、習い事を一杯したりとか。生まれた場所だけの違いだから。やっぱりそれは、今平和なところにいる私達がなんとかしなくちゃいけないなっていうのは、心から思いました。

これから3日間のTICADも、まずは「そういう事があった」という事だけでも、かすかにでも記憶にとどめていただけたら―――と思います。
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