大分一家6人殺傷事件から3年、遺族語る

放送日:2003/08/16

大分県で起きた、15歳の少年による一家6人殺傷事件から、一昨日(8月14日)で丸3年が経った。その後も同じような少年による凶悪事件が相次いでいて、もう印象が薄らいでしまったが、そんな今、敢えて、長男を失い長女と次男に大怪我をさせられたお父さんに、じっくり話を伺ってきた。

この事件では、被害者一家が寝静まっていた夜中に、いきなり近所の少年が入り込んで来て、逃げ惑う一家を次々に刺した。亡くなった3人だけでなく、大怪我をしたあとの3人の方が受けた精神的ショックも、かなり深刻だったろう。
伺ったところ、入院したお子さんを再び外に連れて行くのが一苦労だったとのこと。「外に出るのが嫌」「知らない人と話すのが怖い」という状態で、まずは、病室からどうやって出すか、というところからスタートした。“自販機でジュース買いに行こう”から始まり、徐々に“病院に売店があるから行こう”と誘っていった。しかし、売店に行くと知らない人がたくさんいるからと、なかなか行く事ができない。やっと売店に行けるようになったら次に…という形で、徐々に心をほぐしていった。
事件が報道されなくなってからも、被害者の方が受け続ける苦しみは並大抵ではない。

先月、この事件の被害者側と加害者側が和解した、と大きく報道された。かなり画期的な和解内容は、以下のようになっている。
1.加害者の少年が35歳になるまで、半年に1度、住所と職業を被害者側に伝える。
2.同時に、その時の反省状況を伝える。
3.毎月6万円の賠償金を、総額が2億4千万になるまで払い続ける。
(計算すると351歳までという計算なので、生きている限り払うという事だ。)

住所・職業を定期的に知らせるのは、「どこにいるかわからない」という怖さから解放されるためだ。「あくまでも子供を守る、バリアを作るということが目的」だという。

父:
少年が今出てきても、やっぱり不安だと思うんですよね。だから、その不安をどうやったら解消できるのか、ということ。少年がまじめに一生懸命、社会の一員として貢献していることが定期的に確認できれば、ま、とりあえず不安は無いだろうと。そうしていれば、子供は絶対守れるわけですから。

あと15年、35歳までにはまだ時間があるわけで、正に《継続は力なり》ですね。いかに継続させていくか、というのが最大の課題だと思うんですよね。なかなか、年2回、15年続けるのは難しいと思いますね。時々は私の方から、「今どうしてるんだ」と促すようなこともあるでしょう。そうなれば、彼としてもそれなりに答えていかなければいけないと思いますし、いくべきだと思いますし。そういったことは、彼が生きていく上で苦痛になるかも知れません。でも、それでも、償い―――それが償いだと思いますので、継続して欲しい。それが私の最大の課題でもあるし、意義でもあると思います。

−これによって逆に、こちら側に発生した責任みたいなものは?

父:
やはり《見守る責任》と言いますか、加害者をですね。しかも如何に恨まずに、いかに現状維持で自分を納得させながらいくか。それは私だけじゃなくて、私の家族もそうでしょうけど…。

注目すべきポイントは、この情報と同時に、半年ごとに「反省状況」を知らせる、という約束。これを和解内容に盛り込んだ意味を、お父さんはこう話す。

父:
反省せずにただ普通に暮らすのはどうかと思いますし、やっぱりあくまで自分のやったことは一生償うべきだと思いますし。その償いの方法として、反省文を書いて欲しいと望んだわけでして。それが無ければ、償ってないじゃないか、っていう風に思われないこともないですし、本当に、自分や亡くなった人について、よく考えて一生過ごしてもらいたいですし。その上に立って、人生には悲しい事ばかりじゃない、楽しい事だってあるでしょうから、それはいいと思う。ただ、土台のそこの部分を無くしてほしくない。

−これから15年の反省文の中で判ってくることも色々あると思いますが、そのプロセスの中で、一番知りたいことは、何ですか。

父:
一番知りたいことは、反省しているかどうか。もう、それですね。本当に悔い改めているかどうかですね。

−それは、今はまだわからない?

父:
わからないですね。あくまでも憶測でしかありませんので。反省文だって、1回や2回書いただけではわかりませんしね。ずーっとそれを継続していくことによって初めて、判るというか、理解できるというか、ということになるんじゃないかなと考えています。だから継続ってのは難しいし、大事だと思います。

今回の和解は、今後の同じような事件のモデルケースになり得るような形だと言われるが、そこまで漕ぎ着けた目的として、お父さんは、「息子の死を無駄にしない為」と言う。
「犬死で終わらせたくない。だから、違う形ではあるけれども、その命が、世の中に引き継がれて行ってるんだよ、と思いたい」と。

先日の、長崎の駿ちゃん事件では、駿ちゃんのご両親が「中学生といえども犯人を極刑に処してもらいたい」と発言している。
大分のお父さんの場合は、ずいぶん違う形で加害者と向き会ったように見えるが、事件直後は、やはり長崎の両親と全く同感だったという。それがやがて、「極刑が無い以上は、どうやって償ってもらうか、どうやって反省してもらうか」という考え方に変わっていった。
そこに至るには、周囲のサポートが大きかった。以前このコーナーでお伝えした「被害者支援センター」の活動も支えになったという。支援センターの方もあの時強調していたように、専門家だけでなく、周辺住民の何気ない支えが大きいのだ。

父:
先生とか同級生の方は、今でも声をかけてくれますしね。「どうだ、頑張ってるか」って、ちょっと買い物行っただけでも言ってくれますし。本当に小さな町なんですけど、皆が支えてくれているんだなと思いました。そういう意味で、本当に感謝しています。
「だいぶ良くなった?」とか「元気にしてる?」って言われれば、やっぱり、素直に「応援してくれてるんだな」って思えますよね。いろんなしがらみの感情なしに、本当に純粋な気持ちで、頑張れよって言われているような気がしますので、そういう意味では私自身のサポートにもなっているような気がします。本当に≪言葉≫って、大事だと思うんですよ。

そういったサポートもあって和解に至った今、加害者の少年のことを本音でどう思っていらっしゃるのか、伺った。

−加害者の少年と直接話してみたいと思われますか?

父:
思いません。
それは、何と言うか、恨みというものが、やっぱり消えないからだと思います。…顔を見れば、それは皆同じだと思います。ただ頭の中で考えるのと実際見るのでは、ずいぶん差があると思いますし。精一杯頑張って会ったにせよ、顔は見たくないですよね。

−それで、常に弁護士さんを挟むという形を?

父:
そうですね。やっぱり支援センターさんも挟んだ方がいいと思います。

−加害者本人と会ったら憎しみが噴き出してしまうというのは、つまり、今おっしゃってきたような冷静な考えが、崩れてしまうということですか?

父:
可能性はあるじゃないですか。ゼロとは言えないですよね。だから、そうなるとは思いませんが、なる可能性がある以上は、私は会わない方がいいと思います。それで、向うだって嫌な思いするでしょうし。せっかく一生懸命頑張ろうって思ってるのに、嫌な思いもさせたくありませんし。

−それは、これからずっとそうですか?

父:
ずっとそうだと思います。多分そうだと思います。…ただ、子供が結婚して孫ができて、そうすれば15年経ちますからね、その後だったら、もしかすると、「頑張れよ」の一言は、言えるような気がしないでもないですね。

−もし直接会われたら、第一声は、「頑張れよ」ですか。

父:
そうですね。第一声は、「頑張れよ」ですね。自分の子供の分も頑張ってほしいと思いますし。本当に社会の一員としてうまいこと歯車に乗っかって、真面目に生活できていくんなら、やっぱりね。人の親になるかも知れませんし。それしか、言いようがないですし。…で、15年も続けられたんでしたら、私は、大したもんだと思いますね。

―――事件の≪直後≫は、極刑を望んだ。≪今≫は、和解はするが顔は見たくない。≪15年後≫は、「頑張れよ」と言えるかもしれない―――。そうやって、時間の流れと共に、少しずつ少しずつ、お父さんの気持ちは変わっていく。仮に今、少年法を改定して少年を死刑にできるようにしたとしても、その加害者が死刑になった瞬間、被害者の親には、この大分のお父さんのような≪気持ちの癒され方≫が訪れるのだろうか。

今回の和解が提示した新しい選択肢は、非常に重い。

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