痛快!ニューヨーク「ダウンタウン・コミュニティTV」

放送日:2003/08/02

『ビデオで世界を変えよう』表紙 先日、夏休みでニューヨークに行って来たのだが、その中でとても“ニューヨークらしい”場所を訪ねた。その名も「ダウンタウン・コミュニティ・テレビジョン・センター」(DCTV)。チャイナタウンのすぐ近くの、築100年以上の古城のようなたたずまいの、元・消防署の建物である。ここは、自分でビデオリポートを作ろうとする人たちの、とっても熱い拠点だ。
主宰するのは、『NEWS23』等へも時々出ている、かのジョン・アルパートさん。ビデオカメラを抱えて世界中へ出かけ、取材から編集まで1人でこなす≪ビデオ・ジャーナリスト≫の第一人者だ。そこで、ジョンと結婚して32年、二人三脚を続けている津野敬子さんに、お話を伺ってきた。

津野さんは、2ヶ月前に『ビデオで世界を変えよう』(草思社/1700円)という半生記を日本で出されている。実は津野さんは、ビデオ撮影に取組むきっかけをジョンに与えた“世界のビデオ・ジャーナリストの草分け”的存在とも言える人なのだ!
この本によると、もともと津野さんは、アートを学ぶ為にニューヨークへ来た。ところが誰も作品を見に来てくれないので、仕方なく自分でビデオに撮って見せるようになった。その頃、アパートの隣人として知り合って結婚したのが、ジョン・アルパートだった。当時タクシー運転手だったジョンは、アートにもビデオにも全く興味を示さなかったのだが、ある時、タクシー運転手の労働条件改善運動に取組む中で、転機が訪れた。

津野:
彼がタクシーのドライバーを集めてストライキやデモンストレーションをした時の様子をビデオで撮って、最終的にはそれを編集して、ニューヨーク市のタクシー運転手の協会で、ベテランの運転手達、20〜30人に見せた訳なんです。それまでは、ドキュメンタリーというのは、「フィルムの、スクリーン上でちょっと色落ちしていて、ナレーションが非常にたくさんついていて、現実からかなり離れたような…」というイメージで見ていたんですよね。ところがこの、ビデオで撮ったドキュメンタリーは、タクシードライバーの自分たちの声が生き生きと飛び出すように出てきて、リアルな臨場感に溢れていました。だから、みんなそれを見たらものすごくエキサイトして、喧々諤々の口論となったんですね。それを見て、ジョンがびっくりしたんです。「このメディアってこんなに効果があるのか」って。

初めに「映像を撮ってみたい」ありき、ではなく、「タクシー労働改善」という具体的な訴えたいテーマが先にあって、その手段としてビデオカメラを採った。これは、最近の日本で見られる市民メディアの人達の“はじめの1歩”の典型的な形だが、30年以上前に、既にジョンたちは体験していたのだ。

この出来事以来、ジョンはタクシー運転手、津野さんはウェイトレスで生活費を稼ぎながら、チャイナタウンなどの少数派の人々の暮らしをテーマに、制作を続けた。すると、ここがニューヨークらしい所なのだが、「組織にすれば市から助成金が出るよ」とニューヨーク市の方から持ちかけられ、一夜でDCTVを設立。そこから輪が広がり始めた。
今でさえ、まだ市民メディアの制作は手探りなのに、こんな早い時期に、津野さん達は何を教科書にしたのだろうか?
それに関して、津野さんの本から、この頃の様子について書いた一節をご紹介する。

<津野さんの著書より>
この頃、私たちが作っていたビデオは、焦点がぼけていたりして技術的には稚拙なところがあったが、作り手の意気というか、情熱だけはあふれていたと思う。とても張り切って、みんなで楽しく作っていた。なにより若さがあった。
そして、作品ができると、私たちは小型ワゴン車にテレビモニターを載せ、チャイナタウンの街角や公園で自作のビデオを上映した。(―――中略―――)仕事に急ぐ人々が足を止めて画面を見つめる。おもしろいところでは笑い、つまらないとさっさと行ってしまった。
相手が忙しいのに、だらだらと表現しても迷惑なだけで、もし5分で言えることがあれば、5分で作るべきだとそのときに感じた。(―――中略―――)
第三者の目は、カットのタイミングをしっかりと教えてくれたのだ。路上から学んだことはとても有意義だった。

津野さん達にとっては、道行く人々が先生だったわけだ。

その後、ジョン・アルパートの作品は、次々に大手メディアで採り上げられるようになっていく。初めて大手テレビ局にオンエアされたのは、74年12月。キューバを取材して制作した作品だった。米国カメラクルーがキューバで撮影許可を得たのは初の事だったので、大手に採り上げられるのも当然だ。
なぜそんなことが実現したのか、そこにはこんな地道な努力があった。

津野:
「どうしても行こう」って2人で決心して、それを実現するためには何が良いかって考えました。それで、ニューヨークにいるキューバ本国の人達、つまりキューバ大使館や国連代表部の人達と友達になるのが絶対に近道だって思いました。そこで、ジョンが自分の空手クラスのプエルトリコ人の人達、その従兄弟とか友達とかを呼んで、自分たちの野球チームを結成しまして、キューバ大使館に対戦を申し込んだんです。それで、セントラルパークで毎週、試合をしました。私が全員のためにサンドイッチを何十個も作りまして、キューバ人の家族とピクニックをかねてのイベントになりましてね。それを2年間続けました。

−試合の勝ち負けは?

津野:
キューバ人が徹底的に強かったです(笑)。今でもね、その当時のキューバ人の友人とは、野球の話が出るんですよ。彼らにとっても、それだけ記憶に残っている、楽しい思い出だったらしいですね。

賄賂のような、お金での解決ではなく、本当の信頼関係を築いていったのだ。
以来今日まで、次々に力作が世界のテレビ局で放送され、沢山の受賞もしてきた。しかし、実はその影で、人並みの失敗も沢山してきており、それについても本に書かれている。
例えば、やっと実現したキューバ取材での出来事。当時とても大きくて重かったカメラ機材を、乳母車に乗せて運んでいたところ、思いがけずカストロ首相に声をかけられた。

<津野さんの著書より>
機材を積んだ乳母車を押していたら、突然カストロがそれに目をとめて近づいてきた。カストロとはじめて言葉を交わす機会だったが、「これは何?」と聞かれてジョンは、「乳母車です」と答えてしまった。そしたらカストロは「そんなの、見ればわかるよ」という風に肩をすくめて、向こうに行ってしまった。私と葉子は「ジョン、せっかくの機会だったのに、なぜそんな答えをしたのよっ」と叫んだ。
彼はその夜、眠れないほど悩んでしまった。そのときはカストロと話すのもはじめてだったし、スペイン語の質問も用意していなかったので、ジョンがドギマギしたのも無理はなかった。その後ジョンはつねに、カストロにこう言われたらこう答えようと準備するようになった。

かのジョン・アルパートもこんな普通の失敗をするのか、となんだかホッとしてしまうようなエピソードだ。
こうして試行錯誤をしながら、全力投球で作品作りを続ける一方、ジョンと津野さんは同じ志を持った人々の育成にも力を入れてきた。そこがDCTVの素敵なところ!名前通り「コミュニティ」の原点を忘れていない。貧しい家庭の若者たちなどの為に、無料でビデオ制作のワークショップを約20年間続け、のべ1万人が巣立って行った。その1期生だった若者の思い出を聞いた。

津野:
最初の青少年向けの夏のプログラムの卒業生で、彼も今は中年のおじさんになっちゃったんですが、うちに来た時は13だが14くらいの中学生がいたんです。両親が中国人で、典型的な移民の家庭なんですが、彼のビデオ作品が賞をもらいましてね。サンフランシスコの『スチューデント・フィルム・フェスティバル』というところで1位になったんです。ワシントンDCのケネディセンターで表彰式に行って、チャールトン・ヘストンから賞をもらいました。彼が言うには、「あの時が、自分の人生で初めて自信ができた瞬間」だったんですって。その後、彼は大学に行って建築家になりました。ビデオ制作のプロにはならなかったけれど、あの夏の経験と、賞を取ったっていう自信がなければ、そういうクリエイティブな世界を目指す事もなかったんじゃないかと思います。

この道でプロを目指す訳ではなくても、“自分を表現する”という体験は、様々な道を開いてくれる。これは、私が市民メディアの人達に常々言っている事と全く同じなので、大いに勇気付けられた。
DCTVでは、こうしたワークショップで学んだ人たちの作品の一部も販売している。私も1本買ってきた。『アフリカ系米国人、ロシアにて』(津野さんの本の中での邦訳は、『シベリアの黒人』)というタイトルで、「ジャマルは初めて飛行機に乗ってシベリアに行った」と、ビデオの外装に書かれている。ワークショップの交換プログラムでシベリアに行った黒人の男の子が、現地で作った8分の作品だ。このユニークな作品が出来た経緯についても、本に記述がある。

<津野さんの著書より>
シベリアに行った若者のなかに、ジャマルという名のブルックリン地区の黒人の大学生の男の子がいる。(―――中略―――)母親は社会福祉の世話になり、兄弟が8人もいる。そのジャマルが『シベリアの黒人』というすごくおもしろい作品を作った。この子は背が高くて姿もいいが、シベリアの人たちは黒人といえばテレビでマイケル・ジャクソンを見たことがあるぐらいで、生身の黒人を見るのははじめてという人ばかりで、彼は行く先々でものすごくもてた。ディスコに行けば、女の子たち誰もがキャーキャー言って、押し合いへし合いで彼と踊りたがった。
それまでの彼は、白人社会からつねに低く見られていて、すねて、ものを斜めに見る習慣がついてしまっていたが、シベリアでそのような体験を生まれてはじめてして、すっかり変わった。笑顔も明るくなったし、本当に自信がついたのだ。人間は劣等感をつねに強いられて過ごすのと、そうではない世界があるのを知るのとでは、その後の生き方がまったくちがってくる。いまジャマルは、プロTVのアシスタントもしている。

その、自分の転機になった瞬間を、8分の作品にまとめているわけだ。こういうのが、市民メディアの真骨頂と言えるだろう。
私が訪ねた時には、ちょうど障害者の人たちのワークショップの真っ最中だった。来年頃から、障害者だけで制作・出演の全てを運営するスタジオ番組もスタートするという。
私が関わっている日本の市民テレビ団体の中にも、非常に面白い作品を作る脳性マヒの方がいるので、今後互いの作品を交換したりしていけたら楽しいなと思う。

津野さんは、ジョンと御自身の30年余りの活動を、こんなふうに表現している。

津野:
30年こういう事をやっていますと、この組織って、1本の≪木≫のような気がするんですね。鳥たちが一杯飛んできて休む場所で、そこからまたどこかへ飛び立っていく。世界中からいろいろな人達が来られて、10年くらい長くいる人もいますけれど、短い人は数ヶ月とか。皆さんここにきて、いろいろ考えたり、自分のしたい事をしたりして、飛び立っていく。そういう感じがいつもしています。

−津野さんは、木を育てて、水をあげる係ですか?

津野:
そうですね、今はそんな感じですね。木がしっかり立っているように、“縁の下の力持ち”が出来ればいいなと思っています。
▲ ページ先頭へ