忘れないで!アフガンに赴く日本NGO

放送日:2003/07/12

前回はアフリカの話をお伝えしたが、今回はアフガニスタン。イラク戦争があって、アフガン問題はすっかり皆の中で「一つ前の古い話」になってしまったが、当然ながら、現地の人々の苦しみは、まだ少しも解消していない。来週、日本のNGOグループが、そのアフガニスタンに向け、復興支援のため、成田から出発する。今回は、去年の6月からカブールでこの団体の現地事務所長をしている、青島あすかさん(現在一時帰国中)にお話を伺う。

−アフガニスタンには、今、具体的にどんな問題があるんですか?

青島:
私たちは2001年からアフガンで活動をしていますが、私が赴任して来た1年前と比べても、何も改善されていない状況です。人々の生活は相変わらず貧しくて、治安もむしろ悪化しています。私たちがアフガニスタンへ着いた時の方が、まだ自由に行動できたんですけれども、最近はほとんど活動もしにくくなっています。あと物価がものすごく上がっているんです。現地の人々にとっても、すごく生活しにくい場所だと思うんですね。私たちみたいな国際支援団体がたくさんおりますので、カブールは特に物価が高いですね…。

−新政権はまだ安定していないんですか?

青島:
安定していませんね。揺らいでいる、という印象を受けます。現地にいて。
ただ、タリバン政権の頃に比べて、逆行はしていないと思います。みんなで改善しようと努力しておりますので、まったく1年間何も行われていなかったわけではありません。それでも23年間も戦争が行われていたところですので、学校などの公共設備だけではなく、目に見えないところで、失われたものというのがすごく大きいんですよね。人々が教育を受けられていませんので、復興にすごく時間がかかるんじゃないかと思われます。

−タリバン政権の残党はまだ残っているんですか?

青島:
ええ、隠れています。地方の方でまたぼつぼつと出てきているという情報は入ってきているんですけれど…。

−青島さんが所属されている『JEN』(ジェン)というのは、どういう団体なんですか?

青島:
元は『Japan Emergency NGO’s』という呼び名だったんですが、今は『JEN』として活動しています。1994年に設立した団体で、最初は、旧ユーゴスラビアの戦争で被害に遭った人たちに対して緊急支援などを行っていました。設立当初から、「心のケア」とか「職業訓練事業」とか、≪人々の自立≫を目標に活動してきました。旧ユーゴスラビアからフィールドを広げて、インド、モンゴル、パキスタン、エリトニア、そして2001年からアフガニスタンで活動させて頂いています。

ホームページを見ると、かなり大規模な活動をしていることがわかる。2002年の活動費が、4億5千万円という巨費。国際機関からの助成金が半分、あとは寄付金などで集まっているが、活動の規模を考えると、これでも追いつかないくらいだろう。
アフガニスタンも数あるフィールドの1パートで、最初は難民キャンプ支援から始まり、時期に応じて対応を変化させてきた。最近では、壊れてしまった学校の修復事業に取り組み、HPでは、修復された学校の生徒からの、「ありがとう」のメッセージも紹介されている。

−現在は、学校修復事業の他にどんな支援を?

青島:
「シェルター事業」と言いまして、簡易住宅の再建をしています。難民だった方が戻って来た時に、住宅がないんです。長年の戦争で破壊されてしまっていますので。その人達の住宅を、修復・確保する事業です。

「言うは易し、行うは…」と言うが、本当にご苦労が多いだろう。
 HPには、現地に入っている『JEN』スタッフの活動日記が載っている。その中から、一部分をご紹介しよう。ちょうど日本では皆がイラク戦争に注目している頃の日記だ。

(『JEN』のHPより)
2003年4月10日:イラクの火の影で
メディアはイラクでの戦争であふれているけれど、アフガニスタンでは今でも、アメリカ・アフガン政府連合軍が空と陸から山に潜むタリバン・アルカイダ勢力に攻撃を加え、双方共に死者を出している。ロケット弾は基地に打ち込まれ、地雷は特定の建物や人物、軍隊を狙って新たに設置されている。ただそれはもう以前のようにメディアと世界中の人々の関心を集めるには至らず、ひっそりと人は死に続けている。(−中略−)
そして幾つの家族が取り残されるのだろう。ボスニアで出会った、深い皺やため息とともに暮らす老婦人のように。息子達の遺影に囲まれてお茶をすする、アフガンの老人のように。(−中略−)
ブラウン管からはみ出した世界で、今この瞬間にまたひとつ、命が奪われる。

こうして、同じ場所にずっと腰を据えて取り組み続けている人達にだけ見える真実は、本当にたくさんある。 同じ日の日記からは、スタッフの滞在の大変さも見て取れる。

(『JEN』のHPより)
先日、東京本部事務局からイラクが日本を3番目の敵対国とみなしたので更に治安に気をつけるようにとの連絡が入った。アフガン政府はアメリカ支持を打ち出しているけれど、イスラム教国であり、アメリカに複雑な感情を抱いている人々が多いこの国で、この影響がどのように私たち日本のNGOに降りかかるのか、予測が出来ない。すぐに事務所のステッカーや看板をはずし、「JAPAN」という文字を消した。

−現地の事務所長というポジションとなると、こうした大変な目にも遭われますか?

青島:
ええ、ありますね。治安の問題は本当に、私たちも気をつけております。「JAPAN」のステッカーを外してからも、特に被害は受けず、今はまたステッカーや看板を元に戻して活動をしています。
個人的なレベルでは、アフガニスタンの方々は日本人に対してすごく親切ですね。「同じアジア人」という意識がすごく強くて、親近感を持ってくださっているんです。ちょっと面白い話なんですが、「アフガンと日本は、1919年、同じ年にイギリスから独立した」って信じてる人がたくさんいるんです。アフガンの学校では、そういう風に教わったって言うんですけど…。
治安が悪い分、事業を進めていくのはすごく大変ですね。治安がどれほど危ないかっていうのは現地にいなければ分からないと思うんですが、最近、“放浪の旅”でいらっしゃるバックパッカーの方が増えているんです。3月には卒業旅行で来ている方がすごく多かったんですが、これは本当に危険ですので、気をつけて頂きたいですね。
『JEN』の事務所へも、過去にバックパッカーの方が突然やってきて、「泊めてくれないか」ということがあったんですが、もし、その方に何かあったら、私たちの活動にも影響がありますので…。その人達だけの責任ではないんですよね。

ある戦場ジャーナリストは、「危ない目に遭う時というのは、それまで全く安全に思えていたのに突然危機がやってくるものなのだ」という。だから、運良く無事に帰ってきた人は「全然平気だ」という印象を持ってしまうが、実は大変危険な橋を渡っているのだ。

−青島さんご自身は、どういう経緯で、こういう活動に携わるようになったんですか?

青島:
私は社会人になってからずっと、この分野で仕事をさせていただいているんですけど、『JEN』に入る前はユニセフのカリブ地域事務所のバルバドスという所で2年間、開発の事業をしていました。『JEN』に入ってからすぐにアフガニスタンでしたので、私もびっくりしたんですけれども…(笑)。

−現地にいらして、日本からの支援を実感することはありますか?

青島:
あります。JICA等を通して、学校修復をされていますし。今後は、教師の人材養成も始まる予定です。長い目で見ていくには、そういう、ソフトな部分の要素が必要ですね。

−日本に一時帰国されて、「日本ではアフガンへの関心が冷めてしまっている」と感じますか?

青島:
やっぱり、テレビ等で報道されなくなってしまいましたし、新聞や週刊誌でもそういう記事を見なくなりましたし。最近は、一時期に比べたら騒がれていないというのは感じますね。

日本社会では、“報じられない事は存在しない事”になってしまう。そういう点で興味深いのは、このグループが一般の関心を高めるために、活動紹介ビデオを自ら制作していることだ。マスコミの取材に頼るのでなく、自分達で発信してしまおうということだ。今回もまた、ビデオ制作係が青島さんとほぼ同時に現地入りする。このビデオ制作係を務めるボランティアは、私達もよく知る人物。元TBSアナウンサーの宮沢祐介だ。

青島:
これは本当に嬉しい事です。宮沢さんはビデオの制作技術を持っていますので、活躍して欲しいと、期待しております。
宮沢さんは、現在コロンビア大学に留学してジャーナリズムを勉強されているんですが、『JEN』のインターンに応募してこられて、夏休みの間だけ、インターンとしてこの活動に参加するということです。

ビデオ制作チームは、8月に日本に戻ってくる予定。帰国したら、このコーナーで是非体験談をお聞きしたい。

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