阪神大震災から8年

放送日:2003/01/18

阪神大震災から丸8年。私は前日・当日と現地に入り、あちこちを歩いて、様々な人から「この8年で《得たこと》はなんですか?」と話を伺ってきた。結論から言うと、思った以上に、あの時の教訓が様々なレベルで、静かに≪形≫にされつつある。これは、私のような"よそ者"から見ると、目を見張る発見であった。

例えば、ボランティアなどの市民側と、行政側の相互理解が進んでいたこと。震災直後は、市民と行政の間には大きな溝があった。神戸市は「株式会社神戸市」と揶揄されるように、産業優先で生活者の目線に欠けると言われることが多く、メディアも行政のやり方を弱者(この場合は被災者)に冷たいという論調でしばしば批判していた。ところが今回、ボランティア団体の中核の一つ「被災地NGO恊働センター」にお邪魔し、震災当時からリーダー格の一人であった村井雅清さんにお話を伺ったところ、このような答えが返ってきた。

「被災者もボランティアも行政も、皆変わった。あのころは、どこかに過度な依頼心や敵対心があった。だが、自分達が主体的に動かなければいけないことに気付いてきた。それに呼応するように、行政側もやっと徐々にNGOのことを認知するようになった。」

このことは、兵庫県が先月まとめた復興計画にも表れている。県は元々10年間の完全復興を目指し、先月には「最終三カ年計画」がまとめられた。この際、計画立案から市民側の意見が比較的採り入れられたということだ。以前は、行政側の計画が発表されると、名目だけの"市民参画"に反発して、必ず市民側から「対案」が出され、真っ向から対立することが多かったのだが、近年ではそういう動きも無くなったという。お互いに、相手の言うことに耳を傾けられるようになってきた、ということだ。

県庁の復興推進課長、藤原さんは、震災の3日後より公園のテントで前線指揮にあたり、以来ずっと復興の仕事をし続けているという筋金入りの人だ。
「震災直後から、なんで俺はこんなに批判されなきゃいけないんだ、というぐらい沢山の批判を浴びた。だけれど、行政にも出来ないことはある。
ところが、この8年のうちにお互い話を聞けるようになってきた。行政の側も、NPOという物を信用できるようになってきた。」という。

もちろん、全てがお互いを理解し合えたというわけではない。県庁で話を伺っている最中にも、その玄関前では「もっと復興対策をしっかりしろ」という横断幕を掲げた人達がアピールを行っていた。そういう人達から見れば、「行政と分かり合えたNPOなんて、単に行政側に取り込まれただけだ」ということになる。また、行政側にも、「あんなに市民に迎合しなくても…」という人も依然いる。だが、いつまでも「対立構造」という部分ばかりに注目していては、変化の萌芽を見落としてしまう。両者のほど良いバランス感覚の醸成を、見落としてはならない。

また、復興住宅にも行って来た。一時の仮設住宅とは異なり、外見は全く普通のマンションと変わりない。
ある復興住宅の、肝っ玉母さんのような自治会長・藤河さんがあの震災から学んだことは、「とにかくコミュニティを作らなければ」ということだ。
震災までに作り上げられてきた人間関係は、震災を契機に全て断ち切られ、未だに復興住宅などでの孤独死が後を絶たない。だが、藤河さんは「それまでの人間関係が無くなってしまったのはしゃあない。だから、分断されたコミュニティを元通りにしようとするのではなく、この場所で新しいご近所づきあいを一から作っていくべきなのだ」と、熱心に一軒一軒声かけを行っていた。
仮設住宅時代は、壁も扉も薄く、お互いが気軽に出入りすることができたが、現在の復興住宅は普通のマンションと同じような堅固な建物。そのため、呼びかけにもなかなか応えてくれず、今まで以上にこちらからノックをして、重い扉を開けさせないといけない、というのだ。

昨日(17日)は、藤河さんが中心となり、この復興住宅の前庭でも鎮魂のイベントが行われた。筒の中にろうそくを入れて並べる、というおなじみのスタイルなのだが、何故長田で行われている大きな行事に合流しないのか。「ここに住んでいるおじいちゃんおばあちゃん達は、そこまでも行けないのよ。前庭なら、出てきてくれるかもしれないでしょ」――― 夕方の5時46分になってイベントが始まると、実際、ためらっていた多くのおじいちゃんおばあちゃんが部屋から降りてきて、それを藤河さんが涙を浮かべながら迎えた。「防災で一番必要なのは、助け合える地域の人間関係だ」ということが当時よく言われていたが、それがスローガンに止まらず実践されているのだった。

もう一つの地元のファクターである「企業」は、どうか。長田にある「三ツ星ベルト」という企業は、震災後本社を一旦外に移していたが、地元の人達の嘆願を受け、一昨年本社を元の場所に戻した。それ以来、地域の人達との交流を昔以上に深めている。
震災時も、ちょうど夜勤で働いていた社員達が周りの火事を消したり、会社の体育館を避難所として開放したり、ということがあった。現在も、1年生の入学祝い行事やクリスマスパーティーなど、日常的に交流を続けている。「地域の人達と日頃から交流があれば、その時やるべきことは自然と見えてくる。マニュアルなんていらない。企業の役割、行政の役割、という分担じゃなく、自分がその時に出来ることをやれば良いんだ」という社長の言葉は、地に足がついていた。

これから重要なことは、震災を経験していない地域の人達と、これらの教訓を共有していけるかどうかだ。それが、現地の方々が今回繰り返し強調した「被災地責任」の意味であり、我々メディアの責任でもあるだろう。

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