重信房子の実娘、自伝出版

放送日:2002/06/15

一昨年、ついに逮捕された日本赤軍の重信房子リーダー。その一人娘である重信メイさんが、これまでの28年の人生を振り返る自伝「秘密 〜 パレスチナから桜の国へ 母と私の28年」(講談社)を出版した。今回は、その著者である重信メイさんに、話を伺う。

プロローグは、こんな書き出しで始まる。
「春まだ早い昼下がり、日本語学校の授業を終えた私は、クラスメイトとさよならの挨拶を交わしただけで、慌ただしく教室を飛び出した。学校のすぐ側にある都電早稲田駅から、路面電車に乗るためだ。東京でたった1つ残っている路面電車の都電荒川線は、今ではすっかりなじみの乗り物になった。…(中略)…私は、この都電の窓から、四季折々の花を眺めている。そのほとんどは、28年間暮らしたアラブでは見たこともないような花達だ。」

以下、ずっとこのようなエッセイ風の文章が続き、壮絶な内容にも関わらず、とても読みやすい本になっている。

中村−都電に乗って、どこに行かれるんですか?

重信:
「お母さんがいる、小菅の東京拘置所に行きます。いつもは週2回、忙しいと週1回になってしまったりもします。会えるのは15分だけなんで、この15分で一週間にあった出来事を全部話すのは、すごく難しいです。親戚の所に行ってどういう事があったとか、一緒に楽しみを共有できることを、話しています。
あと、来週はどういう事をするとか、どういう本を読んだ方が良いと母が言ってきたりとか…。母の方の予定は、裁判がある以外は毎日ほとんど変わらないので、時間がもったいないので聞きません。」

お母さんが逮捕されたと知った瞬間の一節。
「2000年11月8日、レバノンの首都ベイルート市内にあるアメリカン大学。いつものように、授業前の一時を、クラスメイト達とたわいないおしゃべりをして楽しんでいると、突然電話が鳴りだした。わたしの携帯電話だ。「あなたニュース見た?あなたのお母さんが捕まったと思う。多分あなたのお母さんだと思うけど」わたしが重信房子の娘だと言うことを知っている人は、アラブ社会ではごく限られている。
電話は、そうした知人の一人からだった。その人の言葉に、私は体が凍りついたかのように動けなくなってしまい、やっとの思い で側にあったベンチに座り込む。クラスメイトの中には、私が重信房子の娘だと知っている人は誰一人いない。
この秘密は、アラブ社会で生きていくためには絶対に守らなければならない物で、細心の注意を払って27年間守り通してきた。二人の関係が知られてしまえば、母や、母の仲間だけでなく、私までも、イスラエルの秘密情報機関モサドに命を狙われる恐れがあったからだ。」

これが、タイトルになっている『秘密』の中身だ。

中村−それにしても27年間、どうやって身元を隠し続けてきたんですか?

重信:
色々とまわりの人達が守ってくれたりしたおかげでもあるんですが、《秘密》を守るということは、私が子供の頃に一番最初に教えられたことだと思います。
友達などにも何も知らせずに、突然引っ越すことも度々ありました。安全でなくなったとかの情報が入ったときには、すぐにその場で引っ越さなければならないこともありました。恋人のもとから突然去らなければならない時も、一応『連絡できるような住所を教える』というように約束はするんです。だけど、いくら約束を守りたくても、もし連絡してしまえば家族を危険にさらす元を作ってしまいますから、絶対にできないことだったんですね。それを守ったおかげで、みんな長い間、生き残ってきたわけですが。

−その間、ずっと無国籍だったんですよね。

重信:
「私は27年間、日本に来る1ヶ月前に日本国籍を取るまで、ずっと無国籍でした。日本人だと普通に日本国籍を持っているので、“国籍がない”という事はどういう事か、分からないかもしれません。
私は出生届もしていないので、《存在》もしていないことになっています。
しかし、当然ながら生きていくためには、色々と書類が必要になります。そういう時は、仮身分というのをアラブの国々からもらっていました。もちろん、本当の名前ではないし、他にも本当の事を色々隠して、身分を借りて生きていました。」

身元の秘密を守るために、家の外では、絶対に日本語禁止だったそうだ。メイさんは顔立ちが向こうの人に似ているので、日本語を喋らなければ、日本人の血であるとはバレにくい。
だが、27年間そうしてきたため、いざ帰国となった時、日本人の前で日本語を喋るのに、ものすごく身体的拒絶反応があったそうだ。

重信:
「もう、喋って良いというのは知っているんですけれど、本当に言葉が出てこなかったんです。体が抵抗しているんですね。
レバノンからパリに来て、そこから日本に行く飛行機に乗るためのゲートの所に、日本人が周りに100人以上いたんです。それでもうドキドキしてしまって、こんなに近い距離で家族以外の日本人といるという事と、日本語がぼんぼん聞こえてくる事で、ものすごく緊張してしまいました。それでも意を決して、搭乗ゲートを通る時に、係員の人に『ありがとう』と言いました。初対面の人に生まれて初めて話しかけた日本語は、『ありがとう』だったん です。」

―――こうして、ついに重信メイさんは、生まれて初めて日本の地を踏む。
続きは、次回のこのコーナーで。来週は、こういう一節から始めようと思う。
「日本時間2001年4月3日午後6時、飛行機は高度を下げて成田空港への着陸態勢に入る。
お母さん。お母さんのいる日本に、お母さんの大好きな桜の季節に、とうとう帰ってきました。言葉にならない思いがこみ上げてきた。70年代の自分達のやり方を反省していた母達。
アラブにいても、いつも日本の生活や四季を大切にして生きてきた母達。母達を通して、いつしか私は、日本人も日本も大好きになっていた。」


<つづく>

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