半世紀前にメディア・リテラシー教育が!

放送日:2002/2/16

《メディア・リテラシー》という言葉は、最近よく聞かれるようになった。これを学校できちんと教えようという試みが各地で始まっていることを、このコーナーでも何回かお伝えした。(バックナンバー01/10/20など参照。)しかし、「またそんな外来の耳新しい言葉にパッと飛びついて…」と胡散臭く思っていらっしゃる方も、少なくないと思う。

ところがなんと!!戦後すぐの時期の日本の中学校の国語教科書を精密に調べてみたら、当時はちゃんと、そういう教育をやっていたのだ、ということが判明! この発見を論文にまとめた、川崎市立中野島中学校・国語科教諭の中村純子さん(横浜国立大学大学院に“内地留学”中)が、昔の教科書や学習指導要領の現物をドッサリ携えて、スタジオに登場した。

−《メディア・リテラシー》というのは、「メディアが発信する情報をただ鵜呑みにせず、しっかりと噛み砕いて、自分も表現・発信できるようにする能力」ということですよね?そんな教育が、半世紀も前の日本で、既に行なわれていた、と?

中村教諭:
はい、そうです。まずは、論より証拠で、昭和27〜29年使用の国語教科書『光村/言語編一』を見ていただきましょう。「ラジオの聞き方」だけで1つの単元が丸ごと使われており、そこにはこんな記述があります。

★おじいさんが孫に語る言葉
「ラジオは国民のためのものだ。ラジオの聴取者は、常に放送の良し悪しを批判して、放送を少しでも良いものにする義務と権利があるからね。いやな放送だったら、スイッチを切ってしまうだろう。それだって無言の批判さ。…[中略]…
(聴取者と放送局の)双方が努力して初めて、放送の質が高まっていく。放送が国民のものだと言ったのも、こう考えてくるとよくわかるだろう。」

★教師が生徒に語る言葉
「ニュースがいつも公平だとは言えませんよ。…[中略]…
それだけに、聞く方では、『ラジオがこう言ったから』というように考えないで、放送を材料として、自分で考えて、判断することですね。
世の中のことを自分の力で判断することは、今の皆さんには難しいかもわかりません。でも、身近なことから、こんな態度を育てていくことは必要なことです。」

−当時は、どうしてこのような記述が、教科書に載っていたのですか?

中村教諭:
まず、日本が第二次大戦中、軍国主義の下で情報が統制されていた、ということがありました。アメリカが、占領政策の中で軍国主義的なものを排除して行くために、ラジオや映画、そして全ての公共の情報媒体を授業に利用することを増やそう、と計画したんです。
戦後、アメリカから来た教育使節団の指導の下に、昭和22年版学習指導要領が構成されました。その中で、現場の教師達が夢中で取り組めるような具体的な実践事例として、ラジオをこういう風に使おう、学級新聞をこういう風に作っていこう、ということが組み込まれていったんです。

それを反映した教科書の実例を、さらに幾つか紹介する。

昭和22年版学習指導要領の現物!なんと、古本屋で結構手に入るそうだ ★昭和30年使用『光村』中3上「ニュース」
「ニュースは、事実の全部ではなくて、選ばれたいくつかの事実が伝えられているということを忘れてはならない。…[中略]…
同種のニュースを読み比べてみることも必要である。」

★昭和34〜36年使用『開隆堂』中3上「新聞を読む必要性」
「新聞も全知全能の神ではないから誤りがある。私たちが、日頃ものごとを批判的に考えることに慣れていれば、どれが誤りらしいか真実らしいかを、かぎ分けるのは、存外むずかしくはないのである。」

中村教諭:
そして、テレビの普及と共に、映像文化への不安も、教科書に現れ始めます。

★昭和34〜36年使用『光村』3年 「意見を持つ」という単元
(投書という設定で)「映画の見方(1)観客が作る映画/映画の広告に、“超弩級傑作”とか“空前の巨大編”などと書いてあると、その映画を見ないうちにいやになってしまいます。誇張した宣伝に迷わされたくないという反発と、言葉が汚されている、という不快さが先に立つからでしょう。…[中略]…観客が揃って程度の低いものに背を向ければ、映画の質は次第に向上していくでしょう。 だから、優れた映画を産み出すのは私達だ、と言ってもさほどおかしいことではありません。」

「(2)消極的な映画の一面/カメラは、それほどでもない事実を誇大に描く力を持っているし、編集の仕方によっては、厳粛な場面もこっけいな情景に変えることができるからです。」

この他にも、新聞社・放送局見学記で、新米記者の1日などを密着して描写し、記事が出来て行く過程をドキュメンタリータッチで描いていたりなど、実に生き生きとした記述が沢山ある。

−中村さん、探してて楽しかったでしょ?

イラスト説明
中村教諭:
こんな所に、授業のヒントがいっぱいあったのか!ということにビックリしました。「シナリオの書き方」というのも出てきますし、その中でカメラワーク(クローズアップ・フェードアウト・フェードイン)と行ったことも丁寧に教えられていましたし、さらにモンタージュの技法と言って、絵コンテを使いながら映像がどう編集されていくか、ということも教えられていたんです。
それから、放送・録音しているスタジオの風景ですとか、ラジオのディレクターのキューサインの出し方等もイラストで説明されていました。(→右の写真)

−その当時は教科書にそんなに沢山載っていたのに、なぜその後、我々の世代が学校に通う頃には消えちゃったんでしょうか?

中村教諭:
昭和25年の朝鮮戦争をきっかけに、アメリカからの指示で、「教育制度の改革に関する答申」というものが出され、従来の生活経験中心のカリキュラム方式に偏ることを避けて、論理的なカリキュラム方式を考えるように、という指令が出されるんですね。(これは26年版の学習指導要領には間に合わず、その次の改訂から反映されることになります。)

−GHQ自身が、自ら持ちこんだ「経験主義」を変更しろ、と言いだしたのは、あんまり社会批判的な目を育てすぎると、アメリカの国益にとってマイナス(日本が資本主義社会の防波堤でなくなってしまう)という懸念もあったんでしょうか?

中村教諭:
それは推論になってしまうんですが…。
それからもう1点、日本国内の要因として、「とにかく経験をさせる中で学ばせよう」という教育方針だと、活動ばかりで学力が低下してしまう、という危惧が大きく広がっていたんですね。それもあって、昭和33年版学習指導要領で、経験主義から、能力主義に移行するんです。丁度折しも日本が高度経済成長の時代に入り、学習もオートメーション化やドリル指導など、大勢を能率良く指導していく、という方向に進んでいったわけです。
この昭和33年版からは、新聞やラジオといった部分も、教科書の外で、副教材として参考資料として扱う、という事になります。

ここで中村教諭が指摘する《学力低下懸念という圧力》は、何となく分かる気がする。昨今、メディアリテラシーを教える試みを始めている学校現場でも、先生達自身がそういう指導体験がないために、実践するだけで精一杯、もの凄い時間をかけてやっているのだが、「何を体系化したらいいのか」という部分で教えが軌道に乗っていない悩みが、無くはない。これは前向きな“産みの苦しみ”なのかな、と思っていたが、当時もそんな中で「こんな事やってていいの?」という後ろ向きのプレッシャーが父母から出てきたのだとすれば、早く体系化の手を打たないと、今度もまた、この動きは一瞬の光芒で終ってしまうかもしれない。

−実際、このコーナーで以前『マスメディア探検隊』という授業の取組みを紹介した岡山・金浦小学校の高橋先生も、後日の反省として「今年の実験は、カリキュラムが重すぎた」とおっしゃっていました。(01/12/29)

中村教諭:
さらに、この4月から、中学校の国語の授業は週4時間あったものが3時間に減るんです。そういう中だからこそ、より教材を選りすぐって、どんなふうにメディアを表現することによって、言葉のどの部分を育てるのか、という基礎基本をしっかり踏まえた上での実践を作って行かなくてはな、と思うんです。
いまも、まだメディア・リテラシーは”ブーム”といった感じです。テレビを使ったらメディア・リテラシーの授業かな、CMを分析したらそれで終わりかな、ではなくて、分析したり使うことによって言葉のどこが育つのか、ということを教員がしっかり考えて行かなくては、と思っています。

−中村さんは、横浜国大の研究生活をこの論文で終えられて、4月からは実際に教壇に戻られるんですよね。今度は、中村さん御自身がこれを実践されていくわけですよね。

中村教諭:
1年間のうち、2〜3時間でコンパクトにまとめられる教材を教員の仲間達と一緒に開発して、授業実践をどんどん行なっていきたいな、と思っています。
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