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ATC(自動列車制御装置)が壊れた?日本社会

2005年5月11日

 前回の話の続き。福知山線脱線事故で、テレビ各局の情報番組のJR西日本バッシングが、さらにエスカレートしている。原因究明や責任追及の手を緩めてはいけないと誰もが思っているはずなのに、その理性的な営みを邪魔しかねない声高な感情論が、目に余る。

  昔むかし、ある罪深い女を皆が寄ってたかって糾弾していた時、イエス・キリストが「自分は罪を犯したことなど無い、と思う者は石を投げよ」と言うと、誰も彼女に石を投げられなかった、という。僕は全くキリスト教徒ではないので、大雑把な引用で信者の方にはお恥ずかしいが、聖書に出てくるというこの話には、深く共感するものがある。
  事故列車に乗り合わせながら、上司の指示で現場を離れ会社に向かった二人の運転士。事故当日やそれ以降、ボーリングやら飲み会やらを予定通り開いていたJR西日本の一部(総数から見たら、たぶん本当にごく一部)の社員たち。それらの行動を偉そうに批判している全ての記者やコメンテーター、そしてTVの前で同調している視聴者たちに、敢えて問いたい。「あなたはその局面で、『自分なら絶対に業務命令に背いて、現場に残った』・『自分なら絶対に皆の流れに背いて、宴会を欠席した』と、100%胸を張って言い切れますか?」

  もちろん、「言い切れる!」という立派な人も、いるだろう。だが少なくとも僕自身は、"絶対に"とは言い切れない前科がある。僕は、阪神大震災の時、発生当日のうちに現場に入り、目の前で見渡す限り家々が燃えているのを見ながら(実際、着ていたコートには降りかかった火の粉で小穴があいた)、延焼防止活動には加わらず、その惨状を報道して全国の人に知らせる、という業務命令に従って必死に動いた。目の前の被災者の方々を直接手助けできない心苦しさは猛烈に感じたが、それでも、《所属するチーム内の役割分担を1人だけ勝手に逸脱するわけにはいかない》という判断を、極限状況下で優先させた。
  上司の指示で現場を離れた2人の運転士だって、あの大混乱と興奮状態の中で、きっと胸中にはこういう葛藤があったに違いない、と僕は勝手に想像している。そんな僕らは、人間社会の標準からはずれた、類まれなる冷血漢なのだろうか。

  《自分も、石を投げる資格の無い罪人なのだ》と自覚すること。より今回の事件に引き寄せて言えば、「この脱線事故の責任の一端は、私にもあるのだ」と僕ら全ての人が自覚すること。そこにしか、再発防止への道筋は無い。今回の件に限らず、いかなるニュースであれ、「自分は少しも悪くない。悪者は○○だ」という受け止め方は、現実社会の因果関係を断ち切った"作り話"でしかなく、そうやって皆が"人のせい"にし続けている限り、同種の悲劇は繰り返される。
  前回は婉曲に書いたが、もっとハッキリ言おう。少しでもダイヤが乱れると不満を感じていたのは、僕であり、あなたではないのか? ラッシュの混雑を嫌って、通勤時間帯の列車増発(=過密ダイヤ)を歓迎していたのは、僕であり、あなたではないのか? さらに遡るならば、国鉄時代に大赤字を批判して、私企業(利益追求体)JRの誕生を歓迎したのは、僕であり、あなたではないのか?
  だとしたら、今回の事故に至るレールを敷いたのは、僕であり、あなただ。JR西日本の体質を作り上げ、この事故の引き金を引いた最終的な責任者群は、今後絶対に解明してゆかねばいけないが、そういう企業体質作りの背中を押したのは、僕であり、あなたなのだ。「宴会、けしからん!」などと息巻いている暇があったら、自分の責任の取り方をも、考えようではないか。

  もう一点、このところの糾弾大会ムードで危惧されるのは、息苦しい《相互監視社会》のエスカレートぶりだ。「いいじゃん、それぐらいまでは」という曖昧な許容性がどんどん失われ、いわば"遊び"の無いハンドルのように、ちょっとでも振れるとすぐウワッとそちらにカーブを切ってしまう状態。このまま突き進むと、何か大事故が起きた時には、日本中で"歌舞音曲"が自粛され、開店している飲み屋は「自分の利益だけ考えて、このご時世にけしからん!」と吊るし上げられかねない勢いだ。叩く側にいられるうちは良いけれど、いつ自分も叩かれる側に転げ落ちるかわからぬ緊張状態の中で、全国民が息を詰めて暮らしてゆかねばならなくなる予感。
  そんな大げさな、と笑う人もいるかも知れないが、そういう"集団狂気"状況は、既に発現しかかっている。今回のJR叩きだって、各局の情報番組のコメンテーターの中には、本当はこの稿で僕が書いたのと同種の意見を言いたい人だって、いたに違いない。でも、今の空気の中では、「JRをかばうのか!」と勘違いのバッシングを自分も浴びるのが怖くて、迂闊な事が言えない。これって、終戦直後に続出した、「いや~、私は日本が米軍に勝てるわけないって判ってたけどね、あの空気じゃ言えなかったんだよ」という《ボク騙されなかったヨ、偉いでしょ》族と、どこが違うのか??

  視聴者・読者という名の乗客をギッシリ乗せたまま、叩きやすい悪者を常に求めて、直線コースを猛スピードで突っ走っている感がある、現代ニッポンのマスメディア。既に何度かオーバーランを起こしており、"乗客"の中には、この暴走に若干の不安を感じ始めつつも、他の乗客の手前、しかたなく黙って吊り革につかまっている人もいる。このままレールが"右カーブ"したら必ずや大脱線が起きる、という切実な恐怖感を、僕は覚える。満員の暴走列車は、今、緩和曲線にさしかかりつつあるところだ。

関連トピックス:"怒り"のオーバーラン、していませんか?

[追記] この問題は、5月14日の「眼のツケドコロ」でもさらに展開する。