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"叱る"人々の楽観的な見通しが、僕には不安。

2004年5月3日(風前の憲法記念日)

  【今まで何度もテストで地道に手堅い得点を取っていた我が子が、1回だけ初めて0点を取って家に帰って来た】という場面を、思い浮かべてほしい。あなたはそこで、今までの実績を度外視して叱責するか、トータルの平均点で評価して温かく迎えるか?
  これは、どちらが"間違っている"という話でもなく、単にその親の≪方針≫の問題だ。「辛い思いをしたね。ちょっと休んで、また今度、頑張ろうね」という考え方だって、「今までがどうであれ、とにかく0点は断じて許さん。謝れ!」という考え方だって、(もっと厳しく「今回は親が迎えに行ったテスト会場から帰宅までの交通費を、子供に請求する」というやり方だって)全てはその家の≪方針≫であり、論理的にどこかが"間違っている"わけではない。

今回の、イラクから帰国した"人質"達に対する世論の割れ方も、これと同じ事だと思う。高遠さんがイラク現地で(自衛隊よりずっと早くから)行なっていた地道な支援活動や、今井さんが現場を見て絵本を作ろうとしていた劣化ウラン弾の情報普及活動、郡山さんに体現されるフリージャーナリスト達の取材活動 ――― これらの"得点"を評価して今回の失敗を擁護する人もいれば、「とにかく今回、政府の労力や金を使わせたのはけしからん」と批判する人もいる。どちらも、いわば己の≪方針≫に基づいて意見表明しているのであり、どちらかが何か"間違っている"というわけではない。

ただ1点、冒頭の喩えで「叱責する」タイプの親たちにちょっと考えてほしいのは、≪あまりに厳しい叱責は、他の子供たちにまで萎縮を招き、「これからはテストは一切受けるのをやめよう」という空気を広げかねない≫ということだ。たまに0点を取ることを回避するために、他のコンスタントな手堅い得点の機会を手放してよいのか。そういう今後のリスクまで見通した上での叱責か。
イラクから帰国した彼らに対する批判の大合唱は、(たとえ批判者本人が意図していなくても)そんな危うさを孕んでいる。この流れの行き着く先にあるのは、「政府が『危ない』と言った場所には、自衛隊以外の人は決して行かないのが、責任感ある日本人の態度です。政府が『いいよ』と言うまで、民間支援は、やめましょう。現地情報は、防衛庁の発表だけで満足しましょう。」という国の姿ではないだろうか。

こんな事を書くと、多くの"自己責任"論者は、「我々はそんな事を言ってるんじゃない。論点をすり変るな。話を大げさにるな。」と反駁するだろう。その気持ちに嘘がないのは、よーく分かる。しかし、≪今≫あなたがどんなに限定的な意味で批判を口にしていようとも、往々にして、≪次第に≫論点はすり変り、話は大げさにるものだ。1人1人の善良な意図に反して世論が自己増殖していくメカニズムに、僕らが鈍感になった時、「歴史は繰り返す」のだ。

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