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浅野ゆう子さんへの手紙

2005年1月20日

 一昨日、神戸市東灘区出身の女優・浅野ゆう子さんに、こんな手紙を出した。

浅野ゆう子様

  昨日、神戸市で行なわれた阪神大震災10周年追悼式で、浅野さんにぜひ御報告したいエピソードと遭遇いたしまして、不躾ながらお便りさせていただきました。

  9年前、震災1周年の日に、当時TBSが放送していたゴールデンタイムの報道番組『スペースJ』の中で、母を亡くした青年の手記を、浅野さんに20分以上にわたって朗読していただいたことを、ご記憶でしょうか。私は、あの手記の存在を発見し、それを書いた平野卓雄さんと番組化への交渉を重ねた、下村健一です。(当時はキャスターとして神戸の現地にずっと出向いておりました為、浅野さんのスタジオ収録はディレクターに全て委ね、ご挨拶も出来ずじまいでした。今更ながら、申し訳ございません。)

  震災の悲惨な現場映像はごく僅かに抑え、真っ暗なスタジオのピンスポットの中で朗読される浅野さんのお姿だけを延々と映し続けたあの放送は、お蔭様で当時非常に大きな反響を呼び、「震災とは何か、ようやく少し判った気がする」といった感想が、視聴者から数多く寄せられました。これも、心をこめて朗読して下さった浅野さんのお力の賜物と、心より感謝いたしております。特に、平野さん自身から、「迷ったけれど、紹介してもらって良かった。これで気持ちの区切りがついた」と言ってもらえた事が、私には一番嬉しいことでした。(彼は、浅野さんにお読みいただいた文中でも「本当に報道は最低だった」と言い切るなど、当初は強いメディア不信を抱いておりましたので。)

  ―――その平野青年と、私は今回、思いがけない形で、再会しました。彼は今や、某・大手広告代理店大阪支社の極めて有能な中堅スタッフとなっていました。そして、神戸市から同社が受注した、昨日の10周年追悼式典の制作チームのリーダーとなって、舞台裏を切り盛りしていたのです。

  閉会後、撤収のバタバタの中で、少しだけ彼と話すことが出来ました。聞けば、この式典の構想が神戸市から明らかにされた時、彼は「この案件だけは何が何でも我が社が取る!」と“燃えて”営業活動を行い、見事それを実現させたそうです。さらに、制作チーフに就いてからも、「未来志向の明るい前向きなセレモニーに」という神戸市側の発案に対して「遺族がきちんと10年前を振り返り涙を流せる時間も用意しなくてはダメだ」と逆提案するなど、思い入れたっぷりに、この日に向って全精力を打ち込んできたそうです。

  浅野さんの名朗読によって、気持ちに1年目の小さな区切りをつけた平野青年は、今度は自らの仕事によって、10年目の大きな区切りをつけたのでした。6千人の参会者ひとりひとりの献花の最後に、スタスタと舞台裏から出てきてさりげなく一輪の白菊を祭壇に供え、短く合掌してまた作業へと消えて行った彼を見て、私は胸を打たれました。と同時に、10年前の悲しい出発点の手記が、朗読される浅野さんの涙顔と共に鮮烈に思い出され、「あの青年は、やりましたよ!」と一言ご報告したくなって、このお便りを書かせて頂いた次第です。

  ご多忙中のところ、最後までお目通しいただきまして、ありがとうございました。
  これからも、ご活躍ください。

下村健一