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メディアが変える・既存メディアは変わるか

コロラド高校銃乱射事件とメディア

1999年4月25日

米コロラド州デンバー郊外のコロンバイン高校で2人の男子生徒が銃を乱射し、生徒12名、教師1名、容疑者2名の計15名が亡くなった銃乱射事件。この時、テレビのニュース専門局はどこも、発生から終結まで半日間、CM抜きでずっと特番体制だった。今回は、その報道から下村の目に見えたアメリカのメディアの取材・報道体制について報告する。

まず感じたことは、映像や情報のメディア間の"相互乗り入れ"がすごく進んでいるな、ということだ。CNNは幾つもの地元局の映像を次々につまみ食いしてまとめて報道、さらにそれをラジオ局が同時に流す、といったアクロバット的なことが行われていた。

また、携帯電話の威力と危険性も垣間見えた。「犯人はカフェテリアにいるらしい」と、机の下に隠れながら、生徒が携帯電話で生レポートする。別の生徒は、親のポケベルに答えて「音楽室」。一方で、自分の現在の隠れ場所を携帯電話で生放送で喋ろうとする生徒を、キャスターが慌てて制止する一幕もあった。

センセーショナルな報道に突っ走ることを抑えようとする、局の自主規制の姿勢も見ることもできた。例えば、警察の会見生中継で「死者25人」と発表がされたが、まさか、という当惑も働き、どの局も飛びつかなかった。この時流れた字幕の見出しは「警察、死者がいることを確認」「容疑者2人は死亡」などで、キャスターも「生徒の目撃談では死体は3つ」などとフォロー。各局個別に警察に確認し、再度「25人」と言われても、「25人に上るかも、と警察は言っている」と控えめに表現していた。日本だったら、警察が言った事は、自分が見てきたように断定的に報じられるところだ。結局、死者は15人で、メディアの方が冷静だった。他にも、CNNが途中から「警察部隊の動きがわかる映像は流しません」と表明するなど、メディアの自制が見られた。

地元局の地域密着ぶりもよくわかった。地元局は

* 逃げた生徒の集合場所
* けが人の収容先
* 子を心配する親たちのための問い合わせ専用電話番号
* ニュースを見てショックを受けた人のためのカウンセリング電話番号といったキメ細かい字幕情報を提供し、混乱した状況下で大いに貢献していた。

また、こういった重大事件が起こると、大統領が不安な時の「心の拠り所」としての役割を果たし、メディアはその伝令者となる。クリントンは解決前から素早く声明を出していたし、TVでは「間もなく大統領がコメント」との予告が再三放送されていた。米国人の友人に言わせると、「だって大統領はクライシス・マネージャーだもん」ということで、こういう時は国民全体が大統領のメッセージを心待ちにしているようだ。さらに、2日後には大統領と高校生たちとの討論会が1時間にわたって生放送され、全米の多くの学校で視聴された。そこには単なるパフォーマンスではない真剣な空気があり、大統領に突っ込む生徒もいた。

日本では大きな事件が起こるとしばらく「なぜだ!」という声がメディアで渦巻くが、それはアメリカでも同じ。去年銃乱射事件が起こり、私が現場を見てきたアーカンソーも、今回のコロラドも、本当に静かで平和な田舎だ。だが、田舎は都会の学校に比べて「警備が手薄」だし、「都会の子には学校外の世界があるが、アメリカの田舎は徹底的に田舎だから学校が唯一の世界で、そこに適合できない場合のプレッシャーは都会よりもずっと大きい」というような、背景はあるようだ。さらに、銃犯罪や爆弾は、引き金や爆弾のスイッチを操作するだけで、肉体的動作としてはいたって簡単なので、何のリアリティも喚起されず、このため殺傷行為に「なぜ」という格段の理由などそもそも必要としないのかもしれない。

もう一つ。アーカンソーの学校乱射事件に取材に行った際、日本とは全く異なる米国メディア社会の一面を見ることができた。それは、メディアによる犯人少年の実名報道に対する、一般の人々の反応だ。実名を知った人々から、その家族には手紙が殺到したのだが、なんと、その内容のほとんどが、犯人少年の家族を激励する内容なのだ。「今あなたの息子さんは一番大変な時なのだから、頻繁に面会に行ってあげてね」・「その子のケアに気を取られ過ぎて、つらい思いをしている兄弟への目配りが手薄にならないように」・「日曜の教会に集まって、村中であなたたち家族の為に祈っています」などなど。少年の母親からそれらの手紙の実物を沢山見せてもらって、私は、アメリカ取材生活の中で、最大の衝撃を受けた。日米メディア比較の議論をする時には、こうした社会の在り様の違いを、絶対に抜きにしては語れない、と痛感させられた。

※文中の情報は、全て執筆時点(冒頭記載)のものです。