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メディアが変える・既存メディアは変わるか

日経さん、いい記事ありがとう。だけど…

2005年2月15日

 先週火曜(8日)の日本経済新聞夕刊『こどもと育つ』欄に、僕の記事が載った。育児休暇を取ったり、仕事漬けになったりの両極端で、《育児と仕事》を同時に両立できた事がない、という実態を白状した内容で、読んだ知人等からの反応は、概ね好意的だった。
  ただ、読者のほとんどに共通する勘違いがあった。皆、僕自身が書いた文章が掲載されていると思ったのだ! ところが真相は、僕から話を聞いた記者が書いて、最後に僕が手直しを加えたものなのである。それがハッキリ分かるように、記事の最後に“(談)”と表示してほしい、と頼んでみたのだが、「この欄ではいつもそういう表示はしていません」と、あっさり断られてしまった。おそらく、その記者にとっては、「なんでそんな1文字を《わざわざ》付け足す必要があるのか」という思いなのだろう。しかし僕にしてみれば、「なんでそんな1文字を拒んで《わざわざ》誤解の余地を残すのか」が、理解に苦しむ。

  今回の記事はホンワカしたテーマだから別に構わないのだが、以前にはもっと深刻なテーマで、同じ目に遭った事がある。今から16年前(89年)、TBSのあるディレクターが、坂本弁護士のインタビューテープを放送前にオウム真理教の信者に見せていた、という問題が、その7年後(96年)に表面化した時の事だ。当時TBSの社員だった僕の所に、週刊B誌の敏腕記者2人がやってきて、この問題をめぐる社内検証の取り組みの様子などを、かなり長時間インタビュー録音していった。ゲラ原稿をチェックする段階になって、記者は電話で、サラリと言った。「下村さんの見解を1行でも多く載せるため、私達の質問部分は、省いてもいいスかねえ?」 連日の社内議論で疲労困憊し、まともな思考能力を失っていた当時の僕は、うかつにもそこで「ああ、わかりました。」と答えてしまった。
  ---そして出来上がった記事(その号のトップ)には、なんとデカデカと「独占手記」という大見出しが躍っていた。ただ唖然。確かに、質問部分がなくなって僕の言葉だけが並んだその文章は、あたかも「手記」に見えた。“訊かれて答える”のと、“自ら手記を寄せる”のとでは、印象が全く異なる。当然僕は、TBSの仲間内の一部からも、「こんなデリケートな時期に、何を1人で積極的にスタンドプレーしてるんだ」という白い眼で見られる結果となった。活字メディアって怖いなあ、と、僕は素人のように、ただ敗北感で立ちすくむばかりだった。

  テレビでは、取材相手から聞いてメモした話を、あたかも当人がカメラの前で喋っているかのように後から画面を作る事は(今のところまだ)技術的に不可能だ。それだけに、新聞や雑誌の記者達が何の抵抗感もなくそういう操作をする事が、僕にはとても不思議に感じられる。